まほう書房

つい先週のことだ。お気に入り、というよりは街で唯一の書店がなくなってしまった。やる気も愛想もない初老の店主に背中をじろじろ見られながら絶妙に悪い品揃えの中から目当ての一冊を探し当てる時間は特に好きではなかったが、なくなったらなくなったで悲しいものだ。本を買うために電車に乗って隣町まで行かなければならない面倒臭さも相まって気が滅入る。

その元書店の建物の前を通りがかると、数日前からシャッターにかかっていた貸店舗の看板が取り払われて、代わりに新しい貼り紙が取り付けられていた。先週閉店したばかりでもう新しい店が決まったことに少し驚きを感じつつ、開店したら寄ってみようと考えていたのが昨日。

夕方、学校から帰る道すがらふと視線を遣るともう店に明かりがついて、『まほう書房』という店名と合わせて開店中を示す看板が扉にかけられていた。どうやら書店の跡地に書店が入ったらしい。居抜きとはいえ、いくらなんでも早すぎる開店に驚きと疑念、それとゆるやかな好奇心が湧いてきた。

自然と家路を外れた足はまほう書房に向き、前は引き戸だった扉を押し開いて店内へと歩み入る。空調が利いているのか、頬を撫でる風に乗って懐かしさを感じる匂いが頭の先から体を包みこんでいく。以前の書店にもあった紙の匂いだけではない甘い匂いだ。

ぐるりと店内を見渡すと通い慣れた店と同じ場所とは思えないほどたくさんの本が棚に平積みに壁掛けに、所狭しと存在を主張する静かなのに轟々とした流れを感じる場所に変わっていた。棚の隙間にはアンティークの椅子がそっと佇んでおり、壁紙までシックな柄のものに変わっていて少し薄暗い店内が一層密やかな雰囲気を演出している。書店というよりは秘密の書斎や美術館と呼ぶに相応しい空間。静かなのに圧倒される、でも居心地が悪いわけではないのが不思議だ。それにしても、本当にこの短期間で壁紙を貼り替えたり、棚を入れ替えたり大規模な模様替えが可能なのか不思議だ。
「……いらっしゃいませ」

のそり、と両手に本を抱えた店員が声をかけてきた。まだ荷解きの途中なのだろう、どんどん本を棚に並べてはタブレット端末に何かを打ち込んでいる。薄暗い場所のせいか、シャツとスラックスにエプロンというシンプルな服装のせいかは分からないが、店員は学生の自分より少しだけ年上の青年にも酸いも甘いも噛み分ける壮年にも見える不思議な風体の人だ。彼が店長だろうか。
「……ごゆっくり」

なんとなく品出しの様子を眺めていると居心地悪そうに首の後ろを掻きながら、店員はぶっきらぼうに言い残してそそくさと奥へ引っ込んでいってしまった。じっと見詰めすぎたらしい、悪いことをした。言われた通り、折角だから街の新しい書店を堪能させてもらうことにしよう。

初めて訪れる書店ではまずどんなルールで本が並べられているのかを見る。作家の名前順なのか、出版社ごとなのか、あるいはお店独特のルールなのか。すぐ近くの棚を眺めていると、小説が並んでいるようだがその中に規則性を見出せなかった。なるほど、この書店は一般的な書店と同じようにジャンル別に棚が分けられていて、その中の分類はお店の独自ルールで構成されているらしい。どれか手に取ってみよう、と背表紙から興味を引かれる文字列を探る。タイトルで好きそうな物語を選べるのは、それなりに本を読んで書店に足繁く通う程度に本に親しんできた私の数少ない特技の一つだ。だが、私はどの本も手に取ることが出来なかった。

どれから手に取れば良いか分からない。まるで猛吹雪の中、標もなく歩いているような不安と高揚で指が震える。こんなことは初めてだ。

どの本も見たことのないタイトルどころか、作家名や出版社も知らないところばかりだ。猛吹雪の正体は未知の情報の濁流だったらしい。小説の棚の中でも自費出版を集めた棚なのかもしれない、と作家名をインターネットで検索してみるとかなり有名な作家らしいことが分かって手が震え始める。世界はまだまだ知らない本で満ち溢れていることを棚いっぱい使って教えてくれたこの店に感謝の気持ちと絶対に通おうという決意が芽生えた。

とりあえず全部気になるがその中でも特に読みたい数冊を引き抜く。『宝樹の枝』『魔杖の七不思議』『あやしい店』、他にも手に取りたいが次の機会だ。昔図書室で読んだ竜や魔法が出てくるファンタジー小説のような舞台で、その世界で書かれたような不思議な本を手に取る贅沢をきっと私は一生忘れないだろう。

心なしか跳ねる歩調でレジまで進む道すがら、扱っている本を眺めていると小説だけでなく雑誌や海外のペーパーバック、実用書や絵本も幅広く取り揃えているらしい。だが、そのどれもが初めて見るものばかりで、まるで本当に異世界やファンタジーの世界に迷い込んでしまったような心地になる。
「すみませーん」
「はいはい」

あちこち寄り道しながらレジまで辿り着くとくたびれた様子の店員が奥からのそのそと出てきて会計を進めてくれた。会計している間に店員を観察していると、やはり壮年の男に見える。丸まった背中の向こうに目を向けると、レジの背後の壁にも棚をつけて本を飾ってあり、店長は相当な本好きなのだろうことを察する。今まで見たことのない本ばかり目にしていたからこそ、レジの後ろに飾られている内の一冊が一等目を引いた。
「お客さん、あの本知っているんです?」
「え?」

紙袋に入れた本を手渡してくれた店員が不意に声をかけてくる。あの本、と言いつつ私がこの書店の中で唯一知っていた本を手に取って見せる店員の声は少し上擦っていた。
「この本の作者がこの街の出身って知っていました?」
「そうなの!? ……そうなんですね……」
「いいですよ、いつも話す言葉で」

くつくつ、喉奥で笑う店員は少し年上のお兄さんに見える。くるくると印象が変わる不思議な人と同じくらい、店員が手にしている本も不思議な物語の絵本だったと記憶している。猫が親元を離れて冒険するのだが、いくつもの不可思議な困難と出会いと別れを通じて、最終的に猫は人に転じる話だ。
「初めて親に買ってもらった絵本で、大好きな一冊です!」
「オレも同じ。だから、この街で本屋するのがずっと夢だった」
「素敵……」

きっとそこから言葉を継いで気になること――この書店にある本はどうやって仕入れているのか、まるで魔法の世界の本のようなものばかりだが他の場所で見ることが出来るのか――を問おうとして、しかしその言葉のせいで二度とこの店に来ることが出来なくなるような気がして、一歩踏み込みそうになる足を踏み留まった。素敵な場所は少しくらい不思議を持っていても良いものだと私はこの時に理解出来たような気がする。
「これからもどうぞご贔屓に」

ニヤ、と少しぎこちなく微笑む店員に見送られて新しい本を抱えた私は本の誘惑に抗いながら一歩ずつ扉へと歩み進んでいく。店に足を踏み入れた時の圧なんてもう露程も感じることはなく、ゆったりとした穏やかな雰囲気は今まで訪れた書店の中で最も心地良い。絶対にまた来よう、扉を押し開いて私は日常へと帰っていった。

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