ご機嫌取り
芽吹きの季節らしいさわやかな晴れの日。大きな湖の対岸へ向かう渡し船を待つ間、イズナは仕事道具を広げていた。天球儀をクロスで磨きながら故障や傷がないか状態を見る時間は彼にとって大切で面倒で大好きなひとときだ。
だが、いつもなら鼻歌でも聞こえてきそうなイズナからは大きな溜め息が漏れる。気怠げな視線は仕事道具でも傍らに置いた大きな楽器ケースでもなく、少し距離を取って寝そべっている影――彼の旅の同行者である狼に向けられていた。
「なあ……でも、もうブラシの柄が折れちゃっていただろう?」
イズナは栗色の髪をガシガシと大雑把に掻いて影に語りかけるが返事もなければ耳の一つも動かさない。それどころかぐわり、と大欠伸をして全く気に留めていない様子だ。
内心少しむっとしたが、それを声音に出さないように努めて冷静を装いながら、天球儀をベンチに置いて自身は狼の近くにしゃがみ込んだ。
「……悪かったって。お前がそんなに大事にしているなんて知らなかったんだ」
狼は尻尾をゆったり振って、ぐるぐると喉奥から低い音を鳴らし出す。尻尾で楽器ケースを叩き、決してイズナを振り向かないその頑なさはまだ怒っていることを示す抗議の姿勢に見えて、イズナはふと懐かしさを覚えていた。
イズナがこの旅に出る前、友の使い古して穴が開いていたストールを見かねて新しいものを贈ったことがあった。確かあの時は早々にイズナが折れてストールの穴を繕う代わりに、新しいものも受け取ってもらったのだった。
対して今回のブラシは元はイズナの物だったが、狼がいたく気に入って離さないから彼が譲ったものだ。暇な時にブラシで毛並みを梳かすと尻尾がゆるゆる揺れて、言葉を話さない旅の同行者の心を垣間見ることが出来る。イズナははじめこそブラシを取られて呆れていたが、今や仕事道具の手入れと同じくらいに思えるほどの時間になっていた。
「分かった、分かりました。次の街でブラシの柄を直すから」
ぴくり、と耳が立ってイズナの方を向く。不機嫌そうに揺れていた尻尾はやっと止まって、イズナの膝を擽っていたふわふわの感覚がなくなった。狼にこちらを向かせるにはもう一声必要だろう。
「……あと、似ているブラシも買って二つを使い回そう。それでどうだ?」
その申し出を待っていたかのように、狼はくるりとイズナを振り返り小さく鼻を鳴らす。決して鳴かない同行者なりの肯定の意であることは短くない旅路の中でよくよく理解していた。
心なしか満足気に胸を張って立ち上がった狼の鼻が向く先にはやっと渡し船の影が見え始めていた。
「……気難しいのは誰に似たんだか……」
追いかけ続けているあの面影を感じて独りごちると、耳ざとく聞こえていた狼がイズナの膝に軽く頭突きをお見舞いする。
「あいたっ! ごめんって」
ふん、とまた鼻を鳴らして狼は一人で桟橋へ歩いていった。イズナはまた晴れ間に似合わない溜め息をつき、仕事道具と楽器ケースを手早く取りまとめて同行者の尻尾を追う。存外硬い毛並みの尻尾は今度ばかりは機嫌良さげにゆらゆらと揺れていた。