空の飛び方
前後不覚になりそうになりながら機首だけは天に向け続けて空を求める。目の前を覆う濃霧のような雲を切り裂いて、ひたすら飛んでいた。このまま一生雲の中を彷徨い続けるのかもしれないと不安が翼を掴みかけた瞬間、視界が真っ白に染まる。
雲海だ。
敵も味方も誰もいない、どこでもない場所が存在していた。エンジンの駆動音がやけに響く、静かな世界だ。
ついさっきまで敵小隊とのドッグファイトのただなかだったことが夢のように感じられて、念の為にヘルメット越しの横っ面めがけて拳を叩きつけるとちゃんと痛い。うっすらと感じていた目眩が強くなったことも自覚した。どうやら現実らしい。
高度計は機体の限界ギリギリを示している。見える範囲で翼や機体に異常がないか見回すが特に異常は見られない。まだしばらくの間は安心して雲海に浮かんでいられるだろう。
人が自らの手足のように扱えるように人型に設計されることが当たり前となった戦闘機A.R.Mer。さっき鉢遭った敵小隊の機体は汎用的な人型だったこともあり、この高度まで来ることは出来ないはずだ。だが、この機体――人型から一瞬で飛行形態に変形出来る機構を備えた実験機体は超高高度の空で存在することを許される特別な存在だ。初めて聞いた時は正気を疑ったし、変形時にかかるGに備える訓練は自分以外に耐えられる者がいないほど辛いものだったが、なるほど混戦する空域から抜けて圧倒的に有利な上空から奇襲を仕掛けるためを思えば必要なことだろう。それに敵機に捕捉されることなく基地へ帰投出来ることもかなり魅力的だ。
そろそろ戦闘空域からも十分離れている上、基地への帰還ルートにも乗れる絶好のポイントまで安全に飛ぶことが出来た。そろそろ高度を落としつつ、程よいところで基地に連絡して人型へ戻ろうかと操縦桿を傾けようとした。だが、操縦桿がびくともしない。
どこか故障を起こしたかと焦りつつ、必死にマニュアルを思い出そうと頭の中の冊子をめくって知識を引き出そうとした。しかし代わりに訓練中聞いた実験機体の噂ばかりが蘇ってくる。
格納庫や実験機体の近くに佇む見慣れない黒髪のパイロット、そしてパイロットなしに独りでに動く機体。不自然に多い目撃情報はロマンを追うA.R.Mer乗りたちの間で実験機体に妖精が宿っている、と信じさせるだけの夢を見せてくれた。勿論、自分も夢を見るパイロットの一人だ。しかし、機体の不良に直面した今、夢だロマンだと言っていられない。
「ねぇ」
背後から突然若い女の声がした。驚いて振り返ると長髪をしっかりとまとめ上げたパイロットスーツ姿の女性がそこにいた。その人は自分が座っている席の後ろ、一人には広いコックピットの空間が自らの居場所であるように落ち着いている。一瞬、その人を観察するとスーツの胸元にはどんなパイロットたちよりも階級の高い証が並んでいた。
「もうちょっとだけ、ここにいようよ」
本来なら正体を問いただすべきだ。だが甘えるようなその声音を聞いて、問わずともその人を理解出来た。パイロットの揺り籠、その駆動音そのもの。
「見て、日が落ちるよ」
指で示された方向を見ると、今まさに雲が燃え上がる瞬間だった。橙色と桃色が競うように混ざり、広がり、白い雲を余すことなく塗り潰していく。
「……きれいだなぁ……」
自由に空を飛ぶこと、それ自体を教えたかったのだろうか。素直に私が漏らした言葉にふふ、と上官殿は我が事のように得意げに笑っていた。
じきに日は沈みきって、暗闇が辺りを包み込むだろう。レーダのデータベースに存在しない黒い実験機体は何よりも夜に溶け込んで、目視以外で見つけることが難しくなる。基地に戻るのはそれからでも良いだろう。
もう少しだけ、誰に邪魔されることなく自由なままいられる雲の上を泳いでいよう。