革靴とアロハシャツ

01

〈――明日は高気圧に覆われ、全国的に晴れるでしょう。各地で四十度を超える猛暑日となる見込みです〉

ひと気のない事務所に響くアナウンサーのさわやかな声と、一人分のタイピング音がかすかに響く。終わりの見えない企画書と会議資料のように、今年の夏の暑さはまだまだ落ち着かないようだ。陽太は自嘲気味にため息をつき、しばらく存在を忘れていた時計を見遣る。二本の針はもうじき天辺で揃いかけていた。そろそろ無理矢理にでも終わらなければ、数日前のように守衛を驚かせてしまう。陽太は終わらない何もかもを来週の自分に投げ出すことにして、パソコンの電源を落とした。帰り仕度を整えながら目に入った真っ暗のモニターに反射する陽太の姿には疲れが色濃く映っている。家の最寄り駅でコンビニに寄って、何かつまめるものでも買って帰ろう。陽太は社員証を首から外し、事務所フロアを出た。

すでに閉じている社屋の扉をカードキーで通り抜けては閉じを繰り返す。やっと外に出ると、昼間から居残っている蒸し暑さと少しだけ涼やかな夜風が背中に張り付いていたシャツを撫でていく。
「陽太」

終電はギリギリ間に合うだろうか、と陽太が時間を確認しようとスマートフォンを取り出そうとすると聞き慣れた、しかしこの場にいるはずのない幼馴染の声が呼びかけてくる。忙しさでついに幻聴が聞こえるようになったのか、と声のした方を見ると本人の姿まで見える。デスクで寝てしまったのか、それとも夜中に立つ陽炎が悪さでもしているのかと陽太は己の正気を疑い始めた。
「家おらんかったし、もしかして、思たらほんまに会社おると思わんかったわ。まぁた社畜してんのん?」

カラカラと笑う男――柊はもたれかかっていたガードレールから立ち上がって、いつものように大股で陽太に歩み寄ってきた。その夜の街に不釣り合いな明るい様子と大きな声がその男が夢でも陽炎でもないことを陽太は確信させた。そして、改めて陽太は大きなため息をつく。
「……スーツと革靴にアロハシャツはないわ」
「しゃあないやろ、急いでてん。ほれ、はよ車乗り」
「は? いや、もう俺疲れとんねん」
「ほやったら車で寝てたらええわ。上着と鞄は後ろ積んだるし、先乗っとき」

先に説明しろ、このあたりは路駐に厳しいぞ、それよりどうしてここにいるんだ。さまざまな言葉ごと柊の背後に止めてあった車に押し込まれ、陽太は有無を言わさず助手席のシートベルトを締める羽目になった。
「はい、お茶とアイス。これ好きやろ」

トランクに陽太の荷物を積み込んだ柊が運転席に乗り込んでくる。後部座席に手を伸ばし、こぶりの保冷バッグから水色のパッケージのアイスとお茶のペットボトルを取り出して、陽太に投げ渡した。左手には自分の分のアイス――コンビニのかためソフトクリームを持って、一仕事終えたような満足げな笑顔を浮かべている。
「ありがとう……いや、ちゃうわ。お前なんやねん」

エンジンをかけつつ、片手と口で器用にアイスの封を開けて食べようとしていた柊に陽太が強めに問いを投げかけた。そろそろこの意味の分からない状況の意図が知りたかったのだ。
「……もしかしてアイスの気分ちゃうかった……?」
「いや、ゴリゴリ君好きやけど……ちゃう、なんで会社まで来てんって言うてんの」
「海行きたいと思て」

しばしの間が生まれる。二人が住んでいる街から海まで、少なく見積もっても車で三時間はかかる。どうして自分を連れて行くのか、そもそも柊もそれなりに忙しいと言っていたはずなのに何故今日なのか。全く思考が追いついていない陽太はただ柊の言葉を繰り返すことしかできない。
「海」

エンジンが駆動する音を聞きながら、陽太は幼い日を思い出していた。夏休みになれば毎日のように蝉取りやプールに連れ出されたこと。冬は雪が積もれば雪合戦、雪がなくてもソリ滑りに引っ張り出された。年齢を重ねて少しは落ち着いたかと思っていたが、大人になってより引力と行動力を増すなんて子どもの頃の陽太も柊自身もきっと想像できなかっただろう。
「そう、海。最近アホみたいに暑いやろ? そやし、海行こ」

すっかり呆れた陽太が助手席のシートに背中を預けたのを見て、柊は満足気にソフトクリームのコーン部分を一口で飲み込む。
「……アホちゃうか……」
「たまにはええやん」

くつくつと機嫌良く笑う柊はかつて陽太の手を引いた少年そのものだった。
「エコバックにおにぎりも入れたあるし、好きにしぃや」
「うん……」
「あ、コーヒーは俺のん。お前、寝れんなるから飲んだらあかんで」
「分かった」

ふと会話が途切れて気付いた外の風景はいつの間にか高速道路に入っていた。陽太はおもむろに汗をかきはじめていた袋を開けて、ソーダ味のアイスを口に含む。次々と通り過ぎてはやってくる道路照明を眺めながら、懐かしい冷たさをのんびり味わっていた。

いつもの二倍は時間をかけてアイスを食べきった陽太が運転席を見ると、照明が柊の横顔の陰影を映し出していて、静かに前を見据える眼射しについ手を伸ばしたくなった陽太は代わりに声を絞り出す。
「なあ」
「ん? あ、ラジオうるさい?」
「ありがとう」

ラジオに紛れそうな陽太の声が届いたのだろう、一瞬吊り上がった柊の眉がすぐにやわらかい弧を描く。
「……ええで」

柊は前を見たままアクセルを少し踏み込む。陽太はまた自分たちを照らしては去っていく道路照明を眺め始め、やがて心地よいエンジン音に誘われて微睡みに落ちていった。

02

「陽ちゃん、陽ちゃん」

ゆさゆさ、肩が揺さぶられる振動と自分を呼ぶ声で陽太の意識がゆっくりと浮上する。目蓋の裏に感じる陽光はまだ弱く、夜明けから間もない時間であることをまだ微睡んでいる陽太でも理解することができた。なんとか安眠を取り戻そうとしつこく揺らしてくる柊の手を掴んで止めさせようとするが、しっかり覚醒している柊には全く意味を成していない。
「……どしたん、しゅう君……もうちょい寝かしてんか……」
「まだ寝ぼけてるな? 海着いたで」
「……また、あとで………う、海!?」

放っておけばまた寝入りそうだった陽太は一気に覚醒し、シートから上体を勢いよく起こした。陽太の目の前にサメのイラストが現れ、さらに混乱を深める陽太に呆れながらも柊はカラカラと楽しげに笑っていた。やっと自分たちが夜のうちに街を抜け出して海に来たこと、サメのイラストは柊のTシャツにプリントされたものであることを理解した陽太に柊は夕陽の残照のような笑みを向ける。
「おはよ」
「……おはよう……柊、見事に浮かれてるな」

柊はすでに身仕度を終えているらしく、陽太の会社を出発した時とは異なり、水着の短パンとTシャツにアロハシャツ、ビーチサンダルとサングラスまで装備して完全に海で遊ぶ格好に変身している。
「そら十何年振りの海やもん。ほれ、はよ着替えて。朝ご飯にしよ」

バサリ、陽太の頭の上に柊が着替えを乗せる。自身は食事の準備をするためにトランクの方へ向かい、いつも通りの雑な扱いに文句を垂れようとした陽太を軽くあしらっていった。思わずため息をついた陽太はまだ眠気が残る重い体を引きずって大人しく着替え始める。

柊が用意したのは揃いの水着とTシャツ――ウーパールーパーの大群が海に向かって行進している謎のイラストがプリントされている――と、底が厚いサンダルと帽子。夏休みの装備に相応しいものばかりだった。ただ、柊の想定より陽太が痩せていたらしく、すべての服がややオーバーサイズ気味だ。スーツを着込んでスッキリしていた昨夜から打って変わって、ゆるいシルエットになった陽太が車の外に出ると強くなりつつある朝日が肌を刺し、キラキラと海面に反射する陽光が目を焼く。
「暑すぎとちゃうか……」
「夏やしなぁ」

駐車場のすぐ側から始まっている砂浜から戻ってきた柊が汗をシャツで拭いながら、トランクからクーラーボックスを取り出して車の鍵を閉める。チカチカと点滅するライトを確認してから歩き始めた柊の後を追って、陽太も砂浜に足を踏み入れた。
「朝ご飯はあそこで食べるで」
「パラソル……バカンスしてるなぁ」
「ふふ、せやろ」

サクサクとやわらかい砂が足を取ってくるせいでどうしても歩みが遅くなるが、今の陽太にとっては夏を実感させるものだ。陽太は改めて周囲を見渡すと、シーズン真っ只中の海水浴場とは思えないほど人が疎らで海も砂浜も贅沢に楽しむことができそうだった。犬の散歩に来ている人、小さな子ども連れの家族、陽太たちと同じようにパラソルを立てている学生グループ。さまざまな風景が静かに、だが確かにここに在った。
「はい、これは陽太のん」

陽太がのんびり潮風を感じながら歩いてパラソルに辿り着いた頃には、柊がクーラーボックスから食事を取り出して準備してくれていた。かんたんな紙包には見覚えのある地元のパン屋のスタンプが捺されており、陽太は思わず柊を見遣った。
「……お前、これ一人で準備したん?」
「そう。水曜の夜にふわっと思いついて、夜と昼休み潰す勢いで準備したった」
「……行動力が怖いわ」
「せやろ」
「褒めとらんねん」

パラソルの下に用意されたビニールシートに上がり、椅子に座りながら照れ隠しの毒を吐く陽太にも柊はくつくつと笑っていた。食べよ、と柊にパンの包みを持たされた陽太は中身が自分の好きな惣菜パンだと気づく。よく二人で寄り道をして飼い食いしていた記憶を今も柊が覚えていたことにも。
「いただきます」
「はい、いただきまーす」

さあさあとささめく波の音を背景にパンを頬張る。一口目で分かる、少しも変わっていない懐かしい味に二人は顔を見合わせ、思わず笑っていた。

「ご飯よし、着替えよし、準備体操よし。ほな……行くで!」

少し離れたところで遊んでいる学生グループよりも元気に海に飛び込んでいった柊の背中を陽太はのんびり瓶ラムネ片手に眺めていた。大型犬のようなはしゃぎっぷりに同じ年の同性には思えないパワーを感じる。この際、走っていった時に思いきり砂を巻き上げたせいで口の中に砂が入ったことは不問にしてやろうと、パラソルの影の中の陽太は目を細めた。
「元気やなぁ」

カラン、カラン。瓶を傾ける度にビー玉が涼しげな音を立てた。パラソルの下なら暑さもまだ耐えられるな、と陽太はまだひんやりしている瓶を頬に当てる。汗をかいていた瓶から頬に移った水滴が潮風を受けると、さらに涼しさを連れてきた。準備は必要だが、アウトドアもたまには良いものかもしれないと陽太はふんわり考える。

そんな陽太の気持ちを知ってか、ばしゃばしゃと水飛沫を上げて軽く泳いだ柊が満面の笑みで陽太に向かって手を振ってきていた。
「陽ちゃーん、めっちゃ気持ち良いで! はよ来!」
「俺は泳がんでー」
「はぁ!?」

幼馴染の冷たい返答に柊は大慌てで岸まで泳いで駆けてくる。二本目のラムネに手を伸ばそうとしていた陽太の目の前まで全力疾走してきたというのに、柊は息一つ乱れていない。
「ほんまに体力おばけやな……」
「海まで来て泳がん奴がおるかいな!」
「ここにおるで」

泳ぎの誘いをすげなく躱して、クーラーボックスから取り出した瓶ラムネを飲む?と手渡そうとしてくる陽太の様子に柊はむっと唇を真横に引いて、今度は車に向かって駆け戻っていった。しかし瓶は受け取っていくあたり、ちゃっかり夏を余すことなく満喫する気持ちだけは満ちている。

忘れ物だろうかと自分の分の瓶ラムネに口をつけて近くを散歩している犬と家族を眺めていると、ざくざくと派手な足音が背後から近づいてくるのに陽太は気づいた。何してたん、と振り返って訊こうとした瞬間、顔に思いきり水がかけられる。
「ぶぇ! 何すんねん!」

犯人は勿論、柊だ。子どもが持てば両手いっぱいになる大きさの水鉄砲を片手に一丁ずつ、そして浮き輪とを持って、陽太の抗議も計算の内と言わんばかりにニマニマ笑いを浮かべていた。
「あーあ、びちょびちょやなぁ。これはもう海入ったんと一緒やなぁ」
「調子乗っとったらあかんで、しゅう君……」
「いややわぁ、怖いわぁ。あっはっは!」

ゆらりと立ち上がった陽太の手に捕まる前に柊は海に逃げ出した。それを追う陽太もつい、否、遂にパーカーとTシャツを脱ぎ捨ててパラソルの影から海へ向かって駆け出していく。どんどん沖に向かって泳いでいく柊を追って、陽太も思わず十数年振りの海水浴を楽しむ羽目になったのだった。
「なんや、ちゃんと泳げるやん」
「……はぁ、う、うっさいわ……肩、いわしそうや……もうやらん……」
「インドア屋さんは体力終わってんなぁ」

ひとしきり水の中ではしゃいで泳ぎ回った大人はまるでじゃれ合う子犬の様相だろう。柊が持ってきていた浮き輪に体を預けてひととき波に漂っていると、近くを泳いでいく学生からは微笑ましげな視線を送られてしまった。
「海で泳ぐん何年振りやろ……高校生以来か」

気恥ずかしさを隠すように陽太が話題を振る。温泉にでも浸かっているようなくつろぎ方をしている柊は少し考える素振りをして応えた。
「俺は大人になってから来てるし、三年振りくらい?」
「は? お前、さっき十何年振りて言うたやん」
「陽ちゃんと来るんは高校振りや」

さらりと当然のように柊が言う意図を陽太はここまでにいくつも受け取っている。アイス、お茶、パン、瓶ラムネ。お互いにあえて言葉にすることはないが、だからこそ今ここにいることを二人は理解していた。
「……さよか」

時々頭上を飛んでいく海鳥を眺めながら浮いていると、流石に日差しで体力が減っていたらしい。若干疲れ気味の陽太に気づいた柊は「おもろいことしよか」と浮き輪を引っ張ってすいすいと岸まで運んでやる。存外楽しかったのか少し顔色が良くなった陽太は後でもう一回しよ、と珍しく照れ笑いを見せていた。
「最近、仕事どうなん」

パラソルまで戻った陽太はクーラーボックスから冷やしたスポーツドリンクを取り出して、柊に手渡した。その代わりに返ってきたのは近況の問いだ。波に紛れていた夜の気配を感じて、陽太はそっけなくパラソルの中にどっかりと座り込む。
「アホみたいに忙しい」
「それは知ってんねん。休みは取れてんのん?」
「一応。言うても寝てたら終わるわ」
「そうか、そっちもえらいことなってんなぁ……」

柊はごろりと寝そべってペットボトルを目の上に置き、ゆらゆら揺れる小さな水面越しに背中を丸めてしまった幼馴染を見つめる。居心地の悪さを払うように陽太も寝転んで視線を躱し、ぶっきらぼうに問いかけた。
「……ほんで、しゅう君はどうなん?」
「んー、俺? 俺な、脱サラしよ思てんねん」
「はぁ?!」
「めっちゃびっくりするやん、おもろ」

思わず跳ね起きた陽太の機敏な動きをカラカラ笑う柊に対して、陽太は動揺が隠せずにいる。何の考えもなしに突飛な行動をする男でないことは知っているが、何より心配が立って次の言葉を待ちきれない様子だった。柊も上体だけ起こし、頬杖をついて陽太に向き合う。
「ちっちゃいカフェ付き本屋するんが夢やってんけどな。なんか上手いこと土台ができたし、やったろって」

それまでからかうような色を帯びていた笑みは鳴りを潜め、すぐ近くまで来ている未来を見つつ柊はやわらかく笑って言った。だが、陽太の動揺はまだ静まらず、むしろ鼓動が高鳴るばかりだ。
「そんな夢、聞いたことないわ……」
「やって聞かれたことないし。まあ、なんなとするわ」

幼馴染に知らない一面があったことに未だ驚きを隠せない陽太を他所にころり、と寝返りを打って仰向けになった柊はふわふわ欠伸をしている。聞きたいことは山ほどあっても、ここから先には立ち入らない方が良いことを陽太は肌で感じ取っていた。
「深夜営業もするしな。陽ちゃんが仕事でしんどなった時、来てもええよ」
「……ポイントカード作っとって」
「はは、番号一番で作ったるわ」

はあ、と深いため息をついた陽太に柊はやはりやわらかい笑みを向けていた。さまざまな理由や気になるだろう諸々を差し置いて、店に通うことは約束してくれる不器用さを柊は無意識に求めていたのかもしれないと気づく。
「よし、陽ちゃん。スイカ割りしよ」
「……ほんまに満喫する気しかないやん……」
「当たり前や、本気でやらんと楽しないやろ」

柊は起き上がり、駐車場に止め置いた車から立派なスイカを一玉抱えて戻ってきた。陽太に「持っとって」とスイカを預けた柊はきょろきょろと辺りを見渡しながら波打ち際を彷徨い始める。その緩慢な動きを見て、なんとなく意図を察した陽太はクーラーボックスに入っていた予備のビニールシートを広げ、スイカと一緒に柊の準備が整うのを待つことにした。

しばらく一人で波と戯れていた柊は目当てのものを見つけたらしく、真っ直ぐ海に入って何かを水の中から引き上げた。
「ええ感じの棒、あったでー」

海水に濡れたままの流木を振り回して気休め程度に自然乾燥を試みる柊に陽太は生あたたかい視線を以て出迎えた。スイカ割りをするつもりで準備をしてきて、割るための棒を忘れるという痛恨のミスをなんとか誤魔化しきったと柊は思っているらしい。だが、陽太はきっとあと一つくらいは抜けているのだろうな、と先を思いつつ肩を落としてスイカの側から立ち上がった。  「よかったなぁ……なんやねん、その手」
「何て、陽ちゃんが割るねんで」
「は?」

あれよあれよと言う間に柊に大人用の傘程の長さの流木を押し付けられ、タオルで目隠しされた陽太は背中を押されてスタート位置まで追いやられる。スイカの側へ戻っていく柊の騒がしい足音を聞きながら、陽太は朝よりも強くなった風の音と漣の音をより鮮明に感じ取っていた。穏やかだ、スイカを割る役目を押し付けられたこと以外は、と陽太は大きくため息をつく。準備ができたのだろう、少し遠くから「もうええよー」と柊が呼ぶ声に合わせて陽太は流木を引きずって歩き出した。
「右や! ちゃう、左や! 嘘、右や!」
「どっちやねん! 指示出し下手くそか!」
「ごめんて。お椀の方や」
「こいつ……大人のくせに……」
「割れたらええねん。あ、そのまま真っすぐ。あとちょっと……」

明らかに不慣れな指示の下、陽太はよろよろふらふら砂に足を取られながら、しかし着実にスイカの方へ近づいていく。目隠しをして平衡感覚が鈍っているからか、時折砂で滑って転びそうになりながら、だが柊の声を頼りに陽太は足を踏みしめて進み続けた。
「そこや、やったれ!」
「よっ」

柊の合図で思いきり振り下ろされた流木はスイカの中心を捉え、割れるどころか見事に爆発四散。割った当人の陽太はもちろん、近くで見守っていた柊も飛び散ったスイカまみれになってしまった。
「……スイカ割りって、思ったりよりぐちゃぐちゃなんねんな」
「知らんかったんか……」
「やって初めてやもん」

呆れを隠さずため息をついた陽太がタオルを外すと、唇をとがらせていた柊が照れを隠すようにはにかんだ。いつも陽太の一歩二歩先を勝手に行っている柊の珍しい姿を見て、陽太の悪戯心がくすぐられる。
「スイカ割り童貞卒業おめでとう、しゅう君」
「あーあ、大人になってもうたわぁ」

03

「だいぶ陽ぃ傾いてきたな……」

派手に散らかしたスイカを半分ずつ平らげてからは砂の城を建築したり、浮輪を引っぱって遊んだり海を満喫していたが、二人の体力と同じように太陽も徐々に元気を失くしていく。

ベタつくのを嫌がった陽太が柊を連れて海水浴場備え付けのシャワーを浴びた二人が風に当たっている途中。海を眺めながらぽそりと呟いた陽太の言葉を柊は聞き逃さず、タオルで髪を拭きながら何か考えてる仕草を見せた。
「……ちょっと早いけど、あれ出そか」
「あれ?」
「待っとって」

スイカの時のようにまた車に駆けて行った柊は両手いっぱいにビニール袋を抱えてすぐに帰ってきた。ガサガサと中から取り出した色とりどりの包装の山を見て、陽太は思わず目を見開いてしまう。
「おお、花火」
「じゃーん! 海来たら花火もやらんとあかんやろ」

袋から取り出して広げられた大小さまざまな花火は、手持ちで遊ぶタイプや地面に刺すもの、あるいはネズミ花火まで火をつける前から賑やかにビニールシートの上を彩っていた。しかし、雑に見積もってもファミリー用のものが四つはある。
「……二人でやるには多すぎひん?」
「……そうかな……そうかも……」

取り出して中袋から花火を取り分けながら作業の終わりが見えないことに気がついたのだろう。柊の表情が徐々にニコニコと音が聞こえてきそうな笑顔から何処か遠くを見通すような哀愁漂う顔に変わっていく。

どうやって花火を効率的に遊ぶか考えている柊の代わりに陽太がぐるりと周囲を見渡すと、朝からいた学生グループが丁度帰り仕度をしようとしているところだった。朝から付かず離れずの距離を保ってそれぞれ海を楽しんでいたが、きっと柊なら軽い顔見知りくらいの距離感で話せるだろう、と陽太は柊のアロハシャツの裾を引く。
「なあ、しゅう君。あっちの方に学生おるやろ。分けわけするのはどうやろ」
「あ、それええやん! 俺、行ってくるわ。陽ちゃん、やりたいやつ除けてくれたら残り持ってくわ」
「線香花火があったら何でもええよ」
「ん、分かった……こんなもんかいな」

大体半分くらいをまたビニール袋に詰めて柊はサクリサクリと学生たちに向かって歩き始める。その背中が妙に面白くて、陽太はつい話しかけて戻ってくるまでの一部始終を眺めてしまった。始めは緊張した様子の学生たちも柊のやわらかくて人当たりの良い会話で徐々に警戒を解いてくれたようだ。何言か交わしてビニール袋を交換した柊はほくほくした笑顔で陽太の待つパラソルまで戻ってきた。
「お礼にキンキンのジュースもろた。ええ子らやったわ」
「よかったなぁ」

陽太と柊は学生たちに手を振ってから缶ジュースを開けて、まず乾杯。よく冷えた炭酸ジュースが花火の準備で汗をかいた体を冷やして気持ちが良い。

少し和んだ二人は柊が用意していた台座付きのろうそくに火をつけて、花火大会を開始した。ちびちび缶を傾けながら最近の手持ち花火のクオリティに驚き、とぐろを巻くヘビ花火や足元を飛び回るネズミ花火に大はしゃぎし、あっという間に大量の花火がなくなっていく。

始める前はどうやって消費しようか途方に暮れていた山のような花火も、全力で楽しむ大人の手にかかれば線香花火を残すのみ。陽太がパラソルの下から持ち出した椅子にそれぞれ腰掛け、二人は今日の締めに入ろうとしていた。
「線香花火ちょうだい」
「はい、どうぞ」
「しゅう君、線香花火は勝負せんとあかんで。法律で決まってるし」
「……陽ちゃん、自分の勝てる勝負ばっかり仕掛けてくるのん、いやらしわ……」
「うっさい」

くつくつと笑いあいながら、お互いの線香花火に火をつけた。無意識に呼吸を止めた二人の手元で橙色の花が弾けては消えて、パチパチとやわらかい綿毛のような火花を散らす。やがて収束した火の粉はくるくると姿を転じて、二つの小さな火球はほとりと砂に吸い込まれていった。
「……今回は引き分けか……」
「次の夏に持ち越しや。覚えときや、陽ちゃん」
「……そやな」

はあ、と陽太は空に向かって大きく深呼吸をする。ぐっと伸びをして、砂だらけになるのも構わずそのまま後ろに倒れ込んだ陽太の表情は涼やかさと少しの疲れが混ざっていた。
「夏、満喫してしもたわ。昨日まで会社に缶詰やったのに」
「楽しかったなぁ。名残惜しいけど、花火の後始末したら帰ろ」
「そやな。車乗る前に着替えんとやし、陽が出てるうちに仕舞わんと」  「……あ」

明らかに顔にまずいと書いてある柊の様子に陽太は昼間に感じた予感を思い出し、何故かヘラヘラし出した幼馴染に問いかける。
「……どしたん」
「……着替え、用意すんの忘れた」

両手で頬を挟んで可愛こぶってみせる柊に冷ややかな視線を向け、そして陽太は吹き出しながら手に届くところにあった柊の膝をペシリと叩く。
「そういうところやで、しゅう君」
「ごめんて……」

勢いをつけて起き上がり、背中についた砂を落としながら陽太はこの後のことを考え始める。着替えがないなら、せめてスイカと海水でベタつくのを嫌がってシャワーを浴びておいて正解だった。昼間の自分の判断を陽太は心の中で褒める。

そうなれば着替えだけ調達できればいいと判断した陽太は昨夜振りにさわったスマートフォンで周囲の服屋を検索した。丁度帰り道に量販店があるるようだ。
「その辺に店あるわ。今からやったら間に合うし、はよ片付けて服買いに行こ」
「はぁい」

キビキビ動き始めた陽太とは対象的に、昼間の元気はどこに行ったのか柊はゆったりした動きで片付けを進めた。花火の後始末をし、パラソルとビニールシートを畳み、クーラーボックスから出したものは一旦元に戻す。息の合った大人でかかれば片付けはスムーズに終わり、日没まで余裕を持って二人は駐車場に引き上げることができた。

トランクに荷物を詰め込んだ柊が運転席に回ると、そこには既にカーナビを操作して帰り道を設定している陽太がいる。
「陽ちゃん、なんで運転席座ってんの?」
「お前、めっちゃ眠いやろ。目ぇしょぼしょぼしてんで」

柊ははっとして目を両手で隠すが、指の隙間から陽太を見てバツの悪そうな笑みを漏らす。
「……バレた?」
「徹夜して準備して、ここに来るまでほぼ寝んと運転してたらアホでも分かるわ。はよ乗り」

こういうきっぱり言いきる時の陽太は説得できないことを短くない付き合いの中で身に沁みていた柊は何も言わず、助手席に回り込んでいそいそと準備を始めた。柊はクーラーボックスから取り出していた二人分のペットボトルをドリンクホルダーにセットして、なかなか座る機会のない助手席のシートに身を預ける。ワクワクしていることを隠さず、柊は興奮気味に陽太の横顔に言葉をかけた。
「陽ちゃんの運転、初めて乗るかも」
「下手でも文句言わんとってや、久し振りなんやから」
「はいはい。あ、シートとか調整してええで」
「分かった」

言われた通り、バックミラーを調整していると沈む夕日の残照がミラーの端に反射して、咄嗟に目を閉じた陽太の目蓋を焼く。あと少しで燃え尽きる光を目で捉えないように注意しながら、陽太はアクセルを踏み込んだ。

ナビの言うとおりに十分ほど海沿いの道を走ると、いきなり煌々と光る看板を掲げた路面店が現れる。地方特有の理不尽に大きい店舗らしく駐車場も広大だが、もうじき閉店とあって止まっている車はまばらだ。潮の香りをうっすら漂わせる二人が店に入っても、愛想の良い店員としか擦れ違わない。
「丁度ええわ。夏服買ってこ」
「ほな、後でレジ前に集合しよか」
「え」
「は?」
「陽ちゃんの服、選ぶ気しかないけど?」

車に乗る前は眠そうにしていた柊は少し元気になったのか、陽太の分を見繕おうと早速近くの棚を眺めている。しかし陽太は別行動を取ろうと柊の側を離れようとするが、柊が頑なにパーカーの裾を掴んで離さない。
「お前は俺のお母さんか。ていうか、お前のセンスはウーパールーパーやろ。嫌やわ」
「ウーパーの何があかんねん。今日はバカンスやしええやん。ほっといたら陽ちゃんのクローゼットん中、真っ黒なるやろ。俺がおしゃれさんにしたるわ」
「要らへんすぎる……」

そのままパーカーを引っ張られるまま店内をぐるりと一周して、陽太にあれこれ着せて吟味したコーディネートは白いスラックスに濃紺のワイシャツ、スポーツサンダルの涼しげなスタイルでまとまった。ウーパールーパーのTシャツからは想像できない落ち着いた結果に陽太は驚きと少しの悔しさを感じつつ、鏡越しに満足げな表情を見せる柊に一言手渡した。
「白のスラックスとか初めて着るわ」
「やからシャツは黒っぽい青にしたげたやん。夏っぽいで」
「はいはい」

いつの間にか選んでいた柊自身の服を持って、店員に買ったものを着て帰りたいことを伝えると着替えられるように取り計らってもらえた。丁寧にお礼を伝えた二人はさっぱりした服をまとって車に乗り込む。
「シートベルトしいや、すぐ高速乗るで」
「はぁい」

出発する前に陽太が手を伸ばしたペットボトルはクーラーボックスで冷えていたからだろう、少し汗をかいていた。落ちきる直前のか細い西日に照らされた水滴がきらきらと輝いて、ぽたりと落ちる。じきに来る夜をその気配ごと陽太はペットボトルのコーヒーを飲み込んだ。
「また来よか、海」
「そうしよ。次は準備から誘いや」

アクセルを踏み、量販店の広い駐車場から抜け出す。海とは逆の街の方向へとハンドルを切った陽太に柊は悪戯を思いついた時と同じ笑みを見せながら、街灯を眺めて言う。
「考えとくわ」

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