ぼくらの逃避行

「二時間だけ」

>残業が伸びに伸びて、もうじき時計の長針と短針が天辺で揃う。そんな日に限って、君は薄着のままでビルの前にで待っている。車のキーを握りしめて笑いかける君に、私はイエス以外の返事を返すはずがなかった。

車の中での話題はもっぱら、前に会った日から今日まで起こったことの報告会になる。

新しく使い始めたシャンプーが好きな匂いだったこと。新しいクライアントと取引が始まるから緊張していること。自分の関わった仕事を最近街で見かけて嬉しかったこと。今日、迎えにくるまでの道が空いていたこと。

二日前に食べたコンビニのシュークリームが思いの外、美味しくて驚いたこと。もらった入浴剤が良い匂いで嬉しかったこと。今朝は少しだけ早起きが出来たこと。

嬉しいことも、悲しいことも全部、聞かせてほしいし聞いてほしい。
「今日は何処に行くの?」

秘密、と悪戯っぽく微笑んで君はハンドルを握っている。

時間に縛られる私たちの行き先はどうしても限られる。この前に行った隣町の丘がここ最近、一番の遠出だろう。街の明かりからも遠く、雲がない夜だったこともあって星がとても綺麗に見えた。今回も高速道路に乗ったところを見ると、少し足を伸ばすつもりらしい。行き先はいつも君に任せきり、というよりは君の行きたいところが私の行きたいところのことが多いから、余程のことがない限り、私たちは行き先を相談することはない。方向はこの前の丘とは逆で、少なくとも星を見にいくつもりではないことは分かる。

三十分程、車を走らせたところで高速道路を降りる。すると、すぐに暗いものが目の前に広がった。どうやら今回はここが目的地らしい。丘とは反対の隣町には、地元では有名な海水浴場があったはずだ。今は少し時期から外れるが、海水浴場の近くに桜並木があるらしい。
「海で砂遊びしたいって言っていたから」

何気なく零した言葉も覚えていてくれる、君はマメなところがある。まるで恋人のようだ、という言葉は飲み込んだ。

高速道路を降りてから、少し車を走らせて砂浜へ降りて行ける階段を探す。ほどなくして見つかった小さな階段の近くに車を停めて、二人揃って靴を脱いで階段を降りていく。さらさらと細かい砂を踏みしめて、海へ。もう随分暖かくなってきた春先とはいえ、まだ夜は冷える砂浜には私たち以外人っ子一人居やしない。波と、私たちが砂を踏みしめる音以外聞こえない。他の音は海に沈んでしまったかのように、とても静かだ。裸足になった足の指の間をくすぐる砂が心地良い。波の来ないところまで歩いていって、どちらからともなくやわらかい砂の上に座り、並んで波の音を聴いて時間を過ごした。

潮風に撫でられて、自然と深呼吸をすると、肩に入っていた無駄な力が少しずつほどけていく。緊張気味だった君の目元も、少し和らいでいるように見える。ひどく贅沢な時間だ。このままずっと日が昇らないまま、君との時間が続けば良いのに。明けない夜も君となら悪いものではないだろう。そう思っているのは私だけでない、と信じていたい。でも私も、君もこの願いを決して言葉にはしない。欲張りはきっと、この時間を壊してしいまうと知っているから。

風が気持ちいいね。城でも作ろうか。もう少しあたたかくなったら波で遊べるのに。ぽつり、ぽつり、と会話のようなものを交わしながら、二人ともその場から動かず、身を寄せ合って波を眺め続ける。
「そろそろ帰ろうか」

約束の時間が来ると、君は立ち上がる。終わりを教えてくれるのはいつも君だ。

さらさらの砂を名残惜しそうに踏みながら、来た時と同じように車まで歩いて戻る。知らないうちに体中、砂だらけになっていた。結構な時間を座ったまま過ごしていたから、風に混ざっていた砂をもろに浴びていたのだろう。靴を履き直して、車の中に戻る前にお互いの砂を払う必要があった。折角、手入れされた車中を砂まみれにするのは流石に申し訳ない。砂は君の綺麗な髪にもまとわりついていて、軽く払い落とすと、潮の香りに混じって君の香水の匂いがほのかに香った。

車に乗り込んで、高速道路で街へと戻る。明日がもうすぐそこまで迫って来ている感覚は、何度味わっても慣れるものじゃない。通り過ぎていく街灯を数えながら、一緒にあと少しになってしまった私たちの時間を数えた。
「今日もお疲れ様。遅くまでありがとう」 「こっちこそ。今度は泳ぎに行こう」

帰り道はいつも静かになってしまう君は、いつものように家が近づくと路肩に車を停めて、最後の言葉をくれる。お互いに少ない自由な時間を使っている、それを分かっているから。だから私たちは次の約束をしない。いつでも、これが最後と思って、後悔しないように限られた時間を楽しむ。

これは二人だけのための逃避行なのだ。二人がお互いを守るための、そして別の私たちを守るための、小さな、でも大切なエスケープ。

車から降りる仕度をして、さよならを言おうと君へ向き直る。やさしく、でも急に腕を引かれても抵抗はしない。君と私は、明日がすぐそこにあると分かっていて、ふれるだけの軽い秘密を交わした。
「おやすみ、気をつけて」

二時間だけの逃避行はこうして、ひとまずの幕を下ろした。

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