踊る話
まるで花畑だ。
目の前をひらひら優雅に舞う無数のドレスを、それに寄り添い揺れる燕尾服を眺めながら、その人は何杯目か分からないグラスを給仕に手渡した。
窓際の壁を陣取ってどれくらい経っただろう。時折バルコニーへ出入りする人影に伴って入り込んでくる夜風が高い酒であたためられた頬を冷やす定位置をその人は存外気に入っていた。外から射し込む月影は随分と遠くなっていて、あと少しでこの場も終わりが近いことを知らせている。あと少しだけここにいれば、あとは窮屈な礼服を脱捨ててふかふかベッドに倒れ込むだけだ。あと少し。その人は熱が高まるホールを見遣り、またグラスを傾けた。
目の前を通った人のドレスはかなり好みだな、と視線で追いかけていると、彼女のパートナーと思いきり視線が交わる。一緒に会場に入ったものの、すぐに踊りの輪に紛れて見えなくなった同僚──壁の花を決め込んでいるその人にとって今一番会いたくない人間の一人だ。
「やっと見つけた」
「…………うるさい奴に見つかった」
恭しい仕草でパートナーの女性を見送った男はまだ踊りの気配が残る靴音を鳴らして、窓際のその人の元へ近づいてきた。ただ歩いているだけなのに感じる、有無を言わせない圧はその自信に満ちた立ち居振る舞いだけのせいではないだろう。
「一応、仕事で来ているんだ。顔と名前は売っておけと言っただろう」
若干呆れを混ぜた笑みを向ける男はその人と同じように壁に背中を預けて、ふう、と深く息をついた。そして、当然のように流れるような仕草でその人が手にしていたグラスを攫って一気に飲み干す。これだから、と肩を落としたその人は近くを通りかかった給仕からグラスを二つ受け取った。
「そういうのはお前の仕事」
「ああ、私の仕事はよく捗ったとも。行く先々でお前はどこにいる?だの、今度お前と会わせてほしい!だの、何だの引っ張りだこだ」
今度はこの場に相応しい、ゆったりとしたペースでグラスを口にする男は本気で疲れた様子であれこれとその人へ文句を挙げ連ねた。実際、男自身も仕事とはいえ社交場という慣れない場所での振る舞いは堪えるものがあったのだろう。長い時間を共にしてきたから分かる、こういう時は素直に謝った方が良いとその人は勘づいてしまった。
「…………すまない」
案の定、にまにまと相好を崩した男はグラスを手頃なチェストに置き、その人の手を取った。礼服の手袋越しでも感じ取れるほど二人の指先は強張りきっている。
「詫びとして、最後の一曲くらい踊っていけ」
「……誰と。私を踊りに誘う人間なんて居ないだろう」
「は? 今、私が誘っているだろう。案外鈍いな」
その人の手をやわらかく握り、引き寄せた男はそのままホールのただ中へと壁の花を連れ出していく。その人は事前に叩き込まれた通り、今日のために拵えたドレスの裾を摘み持って慣れない靴で男の隣りを傍目から見れば悠々と歩いていた。
男は知っている。その人を踊りに誘う人が居ないのではなく、誘える人が居ないのだと。だが、その事実を本人が認識することはきっとこの先もないだろう。
「ワルツくらい踊れるだろう? ちゃんと楽しめよ」
まるで最上級の宝を賜る瞬間のように、一等優雅で丁寧な仕草とウインクで少しの茶目っ気を見せた男は改めてその人の手を取った。これは仕事だ、お互いに分かっている。その人も淡い笑みを以て、一拍目の足を踏み出した。