火種

顔の真横を弓矢がかすめていく。頬を伝うのは汗か血か、最早確かめる余裕すらないほどの乱戦の中、選りすぐりの精鋭──今日まで共に道なき道を歩んだ朋友たちを連れて、私は仇敵の牙城に踏み込んだ。

何度も乗り越えた塀をよじ登り、まだ埋められていなかった抜け穴をくぐると、燃える木々に彩られた庭に至る。我が方の弓や砲の余波が城の本丸に近い庭園をも焼いてしまったらしい。

一等質の良いの着物を身に着けて初めて登城したあの日、案内していただいた壮麗な景色は見る影もないお陰で、枯れた池に敵将を沈めることに心痛むことも躊躇いを覚えることすらない。焼け落ちた記憶はやがて灰となり、生まれ変わるこの国の礎となるだろう。

謁見の間まであとわずか。激しくなる抵抗もこちらにとっては全て想定通り。本来なら食うか食われるか緊迫に満ちるはずの進軍は、敵が潜伏しているだろうと予測していた場所から繰り出される攻撃の出端を挫くだけの作業と化していた。長い年月をこの城で過ごした私にとって文字通り、庭を散歩することに等しい。

一際豪奢な襖を前にして手筈通り、敵の本陣へ向かう友たちの背中を見送る。私の役割はもう何年も前から決まっていた。

体に染み付いた習慣とは恐ろしいものだ。蹴破ればいいものを、無意識に手を添えた襖をスラリと音も立てずに引き開けていた。その瞬間、ふわりと懐かしい香りが硝煙の風に混じって鼻をくすぐる。泣きたくなるほど恋しくて、二度とふれたくなかった香りは戦場に似つかわしくない佇まいのその人が好んだものだ。

悪逆の王。

民草を、文明を燃やす火種。

かつての主。
「やっと来たか。待ちわびた」

脇息に体を預け寛いだ姿勢のまま、ゆったりとした仕草でその人は顔を上げた。ふわふわと欠伸を漏らしてこちらを見遣る眼差しは寝起きのそれだった。自身の城が攻め込まれているただ中であっても意に介さないのは無関心の境地なのか、それとも何もかも諦めきっているのか。いずれにせよ人も本も焼き尽くす独裁者のことなど理解出来ないなんて分かりきっている。

一歩ずつ、美しく調えられた畳を下足で踏みつけていった。一歩ずつ踏み出すごと、懐かしい香りが頬を掠めて足が止まりそうになる。

泥で汚した畳に二人並んで座り込んでは執務の合間に碁を指したこと。道すがら斬り捨ててきた若衆と共に政の協議をしたこと。何が私たちを狂わせたのか、どうして道を違えたのか。気を抜けば答えのない問いが口をついて出ていきそうになるのを飲み込み、用意してきた言葉を投げつける。
「民の声の総意として、引導を渡しに来た……お覚悟を」

もし私が見逃した逆転の一手があったとしても打つ隙を与えることがないように真正面に相対すると、抜き放ったままの白刃に月影が射して、昔と変わらないかんばせを照らす。その人の瞳には喜色が浮かんでいた。
「その立ち居振る舞い……剣も、弓も、戦術も。努力したな」
「……最後の言葉を」

聞いてはいけない。

本来であれば問答など必要ないと分かっていても、意にそぐわぬ言葉が溢れる。
「……すべてを」

それは相手も同じだったのか、涼しげな目元にやや驚きの色を含んだ揺らぎが映った。柳眉が一瞬寄り、そしてすぐに一文字に和らいでいく。
「すべてを終えたら、お前の居室に行くといい。おおよそ必要なものはあるだろう」

一つ、二つ、息を漏らしたその人は深い水底から砂をさらって、玉石を選び取るような慎重さで言葉が並べられるが声に震えも迷いもない。白刃を眼前に突きつけられ、城は燃えている背水に在ってなお、悠然としたその人は確かに一国の主だと認めざるを得ない。ならば、何故。友好国との同盟を切り、自国の民を焼いてしまったのか。
「お前と最後に会えて、良かった」

突きつけられている刃を握り、自ら首根に導く。もうこれ以上の言葉は無粋だ、と口火を切りかけた私を抑えるように微笑むその人は、もう随分と前に初めてお目通りしたあの日と同じ光を湛えた眼差しを私に向けていた。

左様ならば。城で教わった通りの技で刃を引く。力をなくした災いの体を受け止め、屈みながら茵の上へ静かに臥せれば軽くなった手を通して実感が目蓋から溢れた。

すべてが終わる。

刀を直し、すぐに立ち上がった。向かう先はかつての自室だ。とはいえ、謁見の間のすぐ隣り、数呼吸ばかりで着いてしまった。襖越しにも人の気配はないことを確かめて中に入る。そこには出ていった当時のまま、何も変わっていない部屋に二つだけ自分の知らないものがあった。使い込まれた火鉢と棋盤はどちらもつい最近まで誰かが使っていたような形跡が残っているどころか、火鉢にはまだ燃え残りが燻っている。
「いた! 無事か? 首尾は?」

音もなく駆け込んできた友に肩を掴まれる瞬間まで残り火に見入っていたことに気付いていなかった。一瞬、薄く息を吸って頭目の一人としての自分を纏う。
「……ああ、恙無く済んだ。勝鬨を、この場にいる誰もに聞こえるように」
「分かった」

言葉少なに友は頷いて、我が方が陥落せしめた敵方の本陣へ戻っていった。

このひとときで残り火は尽き、煙が立ち上りはじめている。ふと気まぐれに手をかざしてみても、もう熱の名残もなくなっていた。これから始まるという時にいつまでもこんなところに居るわけにはいかない。薄くなる煙を指先で遊び、そして私は自室だった場所を後にした。

Novel index