渡し守は風に向かって

快晴。帆をめいっぱい膨らませる追い風は強すぎず、波も穏やか。大陸間を航行する大型定期船の甲板では船室から出てきた乗客たちがめいめい好い船旅日和を過ごしていた。日陰で本を読んだり会話を楽しんだり、ぼんやり海を見ている人もいればたまたま居合わせた楽士と魔術士とが即興演奏を披露している一角もある。両親と共に船に乗っている少女もまた初めての船旅を楽しんでいた。念のため声は掛けてから一人で探険に興じた少女の瞳は見慣れないものに満ちた空間で爛々と輝いている。そんな彼女だからこそ、風景に溶け込んでいるその人を目敏く見つけたのだろう。
「お姉さん、何してるの?」

少女が声をかけたその人は手に持った身の丈ほどの長い魔杖で拍を取るようにコツコツ床を叩きつつ、賑やかな旅のひとときを人の声から少し離れた場所から眺めていた。
「海とお喋りしていたんだ」
「ふーん」

誰もその人がいることに気付かないことを知っているように、手すりにゆったりと体を預けて少しだらしなく見えるほどにくつろいでいる。少女は初めて見る魔杖が物珍しく、興味津々といった様子でその人の隣りに並び立った。
「私も魔術士になったら海と話せる?」
「いいや……それに私は魔術士じゃないよ」
「杖を持っているのに?」
「そう、杖を持っていてもね」

少女とのんびり言葉を交わしていたその人は眼前に広がる穏やかな海を見つめたまま動かなくなった。コツコツ、一定の拍を取って床を鳴らしていた杖も止めて、ひたすらじっと水平線を見つめる。

楽しくお喋りしていたと思っていた少女は魔杖の人の変化を不思議がって、同じように水面に目を遣るが風の止んだひっそり静かな海が広がっているだけだった。
「どうしたの? 何か見える?」
「……ちょっとごめんね」

短く呟いたその人は唐突に少女を素早く抱き寄せ、杖を床に突き立ててその場でしゃがみ込む。少女の口から悲鳴か、もしくは抗議の声が出ていこうとした瞬間に船が大きく揺れて波飛沫が巻き上がった。丁度さっきまで少女が立っていたあたりを海から手を伸ばすように波が盛大に濡らして帰っていったところを肩越しに見てとって、少女は言葉を失くす。

嵐だ。あんなに穏やかだった海が唐突に牙を剥いたのだ。
「怪我は……なさそうだね」

杖を支えに船の揺れがましになる時を待つ間、その人は事態と次の波を把握しようと辺りを見回していた。冷静な眼差しはまるで大波が来ることを知っていたようで、周囲の動きを見て次の一手を選ぼうとするゆとりさえ感じられる。
「シャナン!」
「ああ、丁度いい。その子、頼んだよ」

駆け寄ってきた顔馴染みの船員に少女を託した魔杖の人──シャナンは杖をやわらかく握り直して、船をひらりと飛び降りた。目の前で投身する人を見て驚いた少女は船員に静止されながらも海を覗き込む。そこには波に飲まれる人の姿はなく、代わりに悠々と海の上を歩いているシャナンがいた。

海はまたたきの間に表情を変える。ついさっきまで午睡の寝返りのようにのんびりしていた波も風も幼子の癇癪のように荒れ狂っていた。高波と雨で顔が濡れるのもお構いなしにシャナンは水面を踏んで、船頭の方へと歩みを進める。

とん、とん。

リズムをとって歩く足取りは軽く踊るようで、シャナンに誘われて彼女が歩いた後から波たちが歌い踊りだす。長い金髪を吹き乱す風は高く、低く笛のような伴奏を幾つも重ねて深まっていった。時折、人の形を取っているようにも見える白波と歌い続ける風がまだ轟々と暴れる海の手を取り、問答無用で宴の輪へと巻き込んでいってはその勢力が増すばかり。シャナンが船の前方に着く頃には波と風とが奏でる海の歌が彼女を中心として、嵐をやり過ごそうと肩を寄せ合う船員と乗客たちを鼓舞するように響き渡る。

今にも転覆しそうなほど揺れていた船体に手を添え、シャナンは杖で水面を二度ほど打ち付けて足元にいる者たちに呼びかけた。
「この子の最後の航海なんだ、穏やかに見送ってくれないか」

その言葉は隣りに座る旧い友人に語りかけるあたたかな色を帯びて、彼女のすぐ側に寄り添っている白波と共に水底へ沈んでいった。決して強く訴えるものではないが確かに響く声へ応えるように追い風が吹き、祝福の意を示すように波が一度だけ大きく立って船を進路の方へと押し出す。やっと顔を出した太陽によって出来たものとは違う、一際大きな影が船とシャナンの足元を駆け抜けてやがて嵐の余韻を連れ去っていった。

ここには歌が響くただただ穏やかな海だけが在る。
「ありがとう」

細かい傷があちこちについた船体がギ、ギと軋む音は船が上げる喜びの歌であり餞別への礼のようだった。シャナンは傷の一つ一つを手に馴染ませるように撫ぜ、杖でまた水面を何度か軽く叩くと、ふわりと魔法のように彼女の体が持ち上がりあっという間に甲板へと戻っていく。
「もう帆を張っても大丈夫。陸に着くまで運んでくれるってさ」

ふわふわ飛んで戻ってきたシャナンの手を取って甲板へ導いた船員に彼女はのんびりと声をかける。船員はシャナンの無事と着地を認めると、すぐに自らの仕事へと駆け戻っていった。代わりに嵐に怯えていた乗客たちが旅の守護神の帰還の元へ詰めかける。嵐の雨よりも激しい感情に晒されながらも顔色一つ変えずにのんびりとした様子で、方々から投げかけられる称賛や興奮の声の渦中からシャナンを海へ見送った少女が飛び出てきた。
「お姉さん、すごい! 魔法みたいだったね!」
「みたい、か……ふふ」

笑みを深くしたシャナンは何か思いついたようにしゃがみ込み、少女と目を合わせる。ちょいちょい、と肩を指し示されて少女が目を凝らすとシャナンの魔杖がゆらいで見えた。雲間が見せる陽射しのゆらぎかと思われたのはたっぷりとした布が波立つドレスだと少女は気付く。思わず視線を上げると、その人に寄り添う淡い光の中にいる誰かが少女に微笑みかけた。
「魔法は生きている、今もね」

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