いつも通りで、特別な今日
軽い掛け声と着地音、それと同時にカップの水面が揺れてテーブルで本を読んでいたツムギは視線を上げる。すると彼の隣人が頭上に備え付けられたキッチンの戸棚に手を伸ばして跳ねているところだった。普段から若さに任せて元気な様子を見せている青年が今日は一段と活発らしく、ツムギは静かに微笑みながら跳ねる度に揺れるカップとゆるく結わえられた栗色の髪を眺めていた。
「んっ! 取れた!」
戸棚の中に入れていた箱を手に取れた青年はツムギの方へ歩み寄ってくる。自身の背中を見られていたことも知らず、普段より浮足立った足取りは彼の機嫌の良さを表すように軽い。
「椅子、言ってくれたら持っていったのに。無理しちゃ危ないよ、イズナ」
「だって本に夢中だっただろう? 声かけるの悪いし」
イズナ青年が箱を起きやすいように、ツムギは本をテーブルから自分の膝の上へと動かす。そのささやかな気遣いにイズナは笑んで応え、箱の中を開けて見せた。
「これは……随分と上等な茶器だね。どうしたんだい?」
「この街に来てすぐぐらいの時、お客さんからもらったんだ。星読みが来るなんて縁起が良いからってさ」
箱の中にそうっと手を差し入れ、落とさないようにゆっくりと茶器をテーブルの上に出す。やわらかい午後の陽射しがつるりとした表面と描かれた蔦の柄を照らすと、茶器に詳しくない二人でも思わずうっとりと溜め息が出てしまうほど美しかった。
「良いものをもらったね。大切にしないと」
「ああ。それでさ、今日のおやつはこれでお茶を淹れようかと思って」
「……なんでもない日に? 贅沢じゃないかな」
「いいんだ、俺がそうしたい。あと、茶菓子もあるからそれも食べよう」
そう言うやいなやイズナは茶器をさっと箱に入れ直して、シュウシュウと湯気を出すヤカンが待っているキッチンへ歩いていく。こうなれば聞かないな、とツムギも半ば諦めつつ手伝おうと椅子から立ち上がると、すぐさまイズナは振り返って手の平をつきつけてくる。
「今日はツムギさんはお客さんだから座っていて。全部俺がやる」
「……どうしたんだい、今日は一段と頑なだね」
「一段と、は余計だ……なあ、分からないか?」
不意に真剣な色を帯びたイズナの声音にツムギは首をひねって一生懸命考えるがどうしても答えが出てこない。イズナがのんびりと茶と茶菓子の仕度を終え、湯気をもくもくと上げるカップを手にテーブルに戻ってきてもツムギは隣人の求めているだろう答えが分からずにいた。
「ツムギさん、今日は俺にとって特別な日なんだ」
普段の元気で勢いのあるイズナではなく、豊かな知性を以て星と語り未来を語る星読みらしい青年のしなやかな所作でカップが二人の前にそれぞれ供される。
「五年前の今日、嵐の夜に俺があんたに助けてもらった日」
「……もう、そんなに経つんだ」
「そう、そんなに経つんだよ」
カップを手に取ってそのあたたかさを享受するツムギはぽつりと呟き、小さな水面の中に嵐の面影を思い出していた。今は過ぎ去った冷たく、命を奪おうとする強い嵐の夜に二人は出会った。イズナも同じように思い出したのか、未だ嵐の夜には痛む右肩の傷を押さえて瞑目する。
「これまでありがとう。これからもよろしく」
ゆっくりと目蓋を開いたイズナのブルーグレーの瞳は陽射しの色を受けて明るい琥珀色が揺蕩っていた。
「……君と出会ってから、僕は本当に楽しいよ」
カップの湯気の向こうで穏やかに、しかし真っ直ぐとツムギは精一杯の言葉を手の中に包む。確かな友愛を、静かな親しみを受け取ってイズナはまた静かに目を細めた。