波を超えて
01
誰と誰が好きあっている、どこの儲け話はガセだ、次の選挙で誰が出馬する、流行りの服はどこのブランドだ、来週大きなガサ入れがあるらしい。変化の激しい時代らしく次々と槍玉に上がる話題が移り変わっていく下町の喫茶店にたった一筋だけ毛色の違うそれが混じっていることに気付く人はそう多くないだろう。
「まさか、あの寄木先生がこんなにお若い女性だったなんて! やはり流石世に名高い探偵先生は我々俗人とは違うと見える。いやはや、警察とは違って貴方ならきっと私の憂いを晴らしてくれると確信しましたよ」
極彩色の声音の主は見るからに上等なスーツを嫌味なく着こなす男。店員に注文を伝えながら、手のひらに少しばかり握り込ませた仕草にも、佇まいからも只者ではない雰囲気を醸し出している。その対面には気怠げな女性がテーブルにつき、そして傍らには未だあどけなさを残す女性が控えていた。二人とも小綺麗ではあるが、年配の常連が多く占める喫茶店の中に在っては珍しく、男と同じように目立っている。
「はあ……その、まだ請けるかも決めてないので……」
「おや、そうでしたな!」
薄暗い店内で彼だけに照明が当たっているような明るさを放ち、豪快に笑うスーツの男にお手本のような愛想笑いを返した寄木を彼女の後ろに控えた女性が小突く。軽く咳払いをした寄木が少し居住まいを正すと、青年もまた背筋を伸ばして軽く微笑んだ。
「改めて、お時間をいただきありがとうございます。私は円城薫、貿易関係の会社に勤めております」
「円城……というと、あの財閥の?」
「はい。会長は祖父、代表は父にあたります」
品のある笑みに寄木は内心目を細める。円城財閥と言えば、たった一代で国内の造船・貿易とを独占するまで成長してみせた大財閥だ。寄木の目の前の青年もまだ年若いながら貿易部門の拡大に一役買った名士との呼び声が高く、次の国政選挙にも出馬するのではと噂されているほど勢いがある人だ。
一見すると何の繋がりで同じテーブルについているのか分からない集まりだが、周囲からの視線など全く意に介さない様子の寄木は喫茶店の印の入ったコーヒーカップをのんびりと傾ける。寄木の脳裏には今すぐにでも帰って手を付けたい仕事の段取りと、このコーヒーカップを手に取るまでの今日半日が過っていった。
今朝は珍しく早くから布団が上げられて、いつもの数割増しで気怠さを隠さない寄木が新聞を眺めつつ助手の着替えを待っていた。最近流行りの洋装かお気に入りの花柄の和装か、鏡の前でしきりに唸っている助手の背中に彼女はぼんやりと声をかける。
「茶を飲みに行くだけだろう? どうしてまたそんな気合の入ったおしゃれを……」
「寄木くんとお出かけだもの、おしゃれしても足りないくらいよ。ほら、あなたも着替えて」
ようやく今日の一着を決めたのか、ワンピースをまとった助手が居間に出てきた。未だに寝巻きのままでいる寄木の頭の上からワンピースと色合いが似ている淡い萌黄色の背広を被せて急かす。
「……心ちゃん、何か隠してたりする?」
「まさか! 私があなたに隠しごとなんてあると思う?」
「星の数ほどあるでしょうよ」
寄木が投げ渡されたシャツと背広の隙間から心をじとり、睨めつけるが長く連れ添ってきた助手には何処吹く風だ。この様子では何も出てこないだろうことを察した寄木は諦めて身支度を整え、喫茶店へ向かう。
そして下町の喫茶店にはあまりに不似合いな男に引き合わされ、寄木は自分の助手がまたしても自分に探偵ごっこをさせたいのだと気付いたのだった。
「結論から申し上げよう。私の許婚を探してほしい」
「……生憎、うちは結婚相談所でも仲人でもない。失礼する」
「寄木先生、他人のお話は最後まで聞きましょうねぇ」
わざとらしく大きな溜め息をつきながら立ち上がろうとする寄木を引き止めたのは、ここまで連れてきた助手だった。有無を言わせない力で椅子に押し戻されてはどうしようもない。不本意でも一応の礼儀として話くらいは聞こうと、寄木は改めて長い脚を組んでふかふかの椅子に深く座り直す。その様子を見て、今日の依頼人たる男──円城薫氏は爽やかな笑みを見せてまた言葉を紡ぎ出した。
「ありがとう、美しい助手さん。先生、私の許婚は行方不明になっています。姿を消してもう一ヶ月ほど経つが、一向に見つからず困り果てていて……」
円城青年曰く、許婚と観劇の約束をしていたが約束の時間になっても待ち合わせ場所に来なかったらしい。前日にも二人で出かけており、楽しみだと話していたから忘れているはずはない、体調を崩してしまったのかと心配して許婚の家に赴いたところ、同居中の家族から姿を消してしまったことを知らされたと言う。
外套や鞄、貴重品の類もそっくりそのまま部屋に残して、まるで少し憚りへ行っているだけにも見えるほど、忽然と姿を消してしまったのだ。
「お願いです、先生。彼女は……千代は私の太陽だ。彼女がいないと私は駄目になってしまう。きっとこの先訪れる困難も、彼女とならばきっと乗り越えられる……だから! どうか!」
テーブルに額を擦りつける勢いで円城が頭を下げる。張りのある声だけでも目立つのに、大の大人に土下座まがいのことまでされては衆目が集まらないはずがない。喫茶店内にある数多の視線を感じながら寄木はひっそりと溜め息をついた。
「円城さん……そんな話なら警察に行った方が賢明ですよ」
「信用ならない警察なんてものより、もう先生しか寄る辺がないのです! 対価はもちろんお支払いします! 何卒、どうか……!」
「円城さん……」
声をかけてもテーブルから額を離さない円城に流石の寄木も困り果てた。助け舟を求めようと助手の心を見上げると、にこにこと場にそぐわないほど明るく楽しそうな笑みを浮かべている。舟はとうに沖に流されていたことを彼女は知った。
「……顔を上げてください」
「う、請けてくださるのですか?」
「それは……」
寄木はまだ踏ん切りがつかない様子でコーヒーカップの中の水面をゆるゆると揺らして眺める。引き受けるにしろ断るにしろ面倒ごとは起きそうだ。なら、より早く収束し、さらに収入も期待できる方が得だろうと寄木の中の天秤が傾く。
「……今回だけ。それもあなた個人の依頼として。うちは財界や政との関わり、それに色恋沙汰は御免だ」
万感を絵に描いたような表情でまた円城は頭を下げ、寄木は今度ばかりは隠さずに溜め息をつく。彼女の背後でにまにまと笑っている助手へのささやかな抗議の意も込めて。
02
寄木と心は街の少し外れた場所に居を構えている。以前請けた依頼が縁となって、ほぼただ同然で譲り受けた洋館だ。二人で住むには少し広く、やや部屋を持て余しているが小さな庭が寄せ木の心を掴んで離さなかった。
「心ちゃん、ちょっと良い?」
「なぁに、寄木くん」
リビングの一人掛け用のソファ、自らの定位置で雑誌を読んでいた心に寄木が声をかけた。ひりつきすら感じさせるほど締まった空気をまとう背広姿から、着慣れきった部屋着に着替えてくたびれた様子の寄木とは裏腹に楽しげな心の声が弾む。
「あの人とどうやって知り合ったの? 財閥の坊ちゃんがその辺にいるとは思えないのだけれど」
心の対面に置かれたソファに腰掛けた途端に寄木は重力に逆らうことなく肘置きを枕にして寝転がる。
以前請けた依頼の報酬で購入した寄木のお気に入りのソファは背の高い彼女が足を伸ばして寝転んでやっと足首が飛び出るくらい。手に持ったメモを眺めながらゆったりとくつろぐ体勢を取った寄木のとろけ始めた目元とは裏腹に、彼女の頭の中は忙しなく今日を反芻しつつ、依頼人と探し人の間にある何かを探り始めていた。
「かんたんよ、寄木くん。私の職場に来たの」
「バーに? ……あの店は庶民派だったと思うけれど。そういえば、今日明日はお休み?」
「そう、新しい子が入ったからちゃんとお休みを取れってマスターから言われてるの。子犬みたいで可愛い男の子なの」
その子犬のような新入りを思い出しているのか、心はくつくつ笑いながらのんびりと答える。
「確かにうちは高級店じゃあないし、実際あの坊ちゃんが来た時はそれはもう浮いていたわ。名乗らなくても、話し方とか着物が全然違うのだもの」
心は当時を思い出すように、ぱらりと雑誌をめくる合間に〈坊っちゃん〉の仕草を真似るようにゆるりゆるりと手を翻し、何か引き寄せるようにやわらかく握り込む。
「……その時、誰かと一緒だった?」
まるで誰かの方を抱くような仕草。苦虫を噛み潰したように言葉を絞り出した寄木の言葉を聞いた心は心底楽しそうににんまりと笑んで、雑誌のページの隅を折り曲げた。
「ええ、綺麗な人と一緒だったわ……あの許嫁のお嬢ちゃんじゃなかったけれど、ね」
メモを眺めながら足をぶらつかせていた寄木の動きが止まる。完全に脱力していた上体を肘をついて起こし、雑誌に夢中な心をじっとり見詰めた。 「 ……心ちゃん、まだ何か隠しているでしょう」
いつも熱視線を送って止まない心が敢えて寄木を見ない時、そういう時は必ず意味がある。彼女は秘密に辿り着くための道筋を往く寄木を待っているのだ。
「あのね、許嫁のお嬢ちゃんのことは写真で見る前から知っていたの」
「……もしかして……」
「ふふ、似た者同士ねぇ」
「……これだから色恋沙汰は」
カラカラと楽しそうに笑う心とは真逆に、心底嫌そうにメモで目元を隠した寄木探偵は可能な限り早くこの謎とも呼べない事件を解決すべく、今一度情報を頭の中で整頓し始める。
喫茶店での聞き取りでは、許嫁が消える前日に会っていた時に変わった様子はなく、消えて一ヶ月経った今も脅迫状の類は両家ともに届いていないということだった。人がいなくなったというのに、未だ警察には相談していないという。喫茶店でも散々公的機関を頼ることを勧めたが、頑なに警察は信用ならない、寄木が良いの一点張りだ。何か警察には言いにくい事情でもあるのだろうか。
ともあれ、事の発端はきっと浮気。あるいはそう相手に疑われたことだろう。最悪、両者ともに別の相手がいると寄木は見ている。よくある痴情のもつれであれば、円城は許嫁が消えてしまったこと自体は歓迎したいだろうが、喫茶店で会った円城は許嫁を本気で探しているように見えた。一体何故か。
そして、本当に浮気をしていたとして、予定をすっぽかされたからとはいえ、わざわざ相手の実家にまで行って無事を確かめる労を惜しまなかった。別の相手がいるようならそんな面倒なことをするだろうか。献身的な恋人の演技だとしたらどうしようもないが、と寄木は大きく溜め息をつく。
「ねぇ、心ちゃん」
「なぁに?」
寄木の呼びかけに雑誌からやっと目を離した心が微笑みかける。先の言葉を分かっているのか、それともただ名前が呼ばれたことを嬉しがっているかは寄木にも読み取れなかった。だらりとソファの縁から飛び出していた足を地につけ、彼女は助手に問いかける。
「明日、私とデートしようか」
03
円城から依頼を請けた翌日、寄木探偵と心はカフェで遅めのランチをとっていた。本来の予定では朝から依頼の調査のために街に出るはずだったのだが、前日も朝が早く夜が遅かった寄木に連日の早起きが出来るはずもなく、昼すぎになってやっと身支度が済んだのだった。
愛らしい花が散りばめられたカップを両手で包み込み、じいっと見つめる心にはお構いなしに寄木はその向かいで新聞に目を通している。上品な香りの紅茶でようやく心が機嫌を直したことさえ分かれば、彼女にとってその後のことは新聞の報道よりは軽いものだったようだ。
社会面には丁度、海運関連の市場規模拡大に関する分析が大きく紙面を占めていた。流速の速い当代を以て古豪と呼ぶに相応しい円城財閥、そして近年隆盛著しい瑞浪商店がしのぎを削ることで相乗効果を生み、我が国の発展へ寄与しているという。円城の貿易部門を取り仕切る若き指導者・円城薫氏と対を成すように、瑞浪商店の海運事業の責任者の男――水田清一というらしい――の写真が並んで紙面を飾っている。寄木はまるで人気役者のような扱いの若い才能を眺めながら、若くして国に関わるような一大事業を背負う責任の重さに全くの他人事ながら胃に重いものを感じた。
「何か面白いことでも載っているの?」
「ん? ああ、円城氏は社会的に責任のあるの人だろう? 何か関連する情報がないかと思って……あ、私のサンドイッチ、食べてもいいよ」
「本当? なら、遠慮なく」
昨日の喫茶店が大衆のものであったなら、二人が今コーヒーを楽しんでいるカフェは文化人たちの社交場と言える。店内には穏やかな音楽が流れ、客たちの会話を淡いヴェールで覆って密やかなひとときを提供していた。場に馴染むように寄木は色白の彼女をよく引き立てる濃い灰色の背広、心は華やかな菜の花色のワンピースを纏って、さながら華族のカップルのような装いだ。
「失礼」
寄木は通りがかった女給を呼び止めると、メニュー表を手に取りながらポケットの中をまさぐる。心に視線を向けると、お裾分けしたサンドイッチを幸せそうに平らげようとしているところだったがカップが寂しげにしている。
「コーヒーと紅茶をもう一杯。あと……」
伏し目がちに女給を手招きして、注文を書き留めていた手を取り小さな包みを握らせる。女給は顔色一つ変えずに風変わりな青年風の寄木に少しばかり顔を寄せて、声のトーンを一つ落とした。
「いかがなさいましたか?」
「女学校の友人を探して田舎から出てきたのですが……この女性が店に来たことはありますか?」
寄木が懐から取り出した写真を他のテーブルから見えないようにメニュー表で隠して女給に見せると、彼女は一瞬目を細めてからまた濁りのない笑みを浮かべた。
「あら、菊ちゃんですね。来たことがあるも何も、ここで働いていましたよ」
「……ほう? 今日は出勤を?」
「いえ、彼女は一ヶ月ほど前に退職しましたの。なんでも、好い人と結婚するとか」
「それはめでたい」
「本当に! 器量もよくて細かいところにもよく気づく良い子でしたわ。人一倍働いてくれる頑張り屋さんで、出来ることを増やしたいと常々言ってくれていました」
さらに声を潜め、手にしたトレーで口元を隠す。寄木と心が座るテーブルだけに秘密のメニューを供するように、唇の動きすら隠してしまおうと言葉を秘める。
「……ここだけの話。お相手はよく来店なさっていたお客様らしくって。あの子の前向きさに惚れ込んだとか。何度も熱心に通って口説き落としたって専らの噂ですわ」
誰かに言いたくて、しかし誰にでも言っていい話ではない元同僚の秘密を明かした女給は少しばかり頬を高揚させていた。その胸の高鳴りを共有するように、寄木は女給と声の波長を合わせ抑揚を大きくさせていく。
「そうでしたか。しかし彼女も水臭い……輿入れと分かっていれば、祝いの品くらい持参したのに、ね?」
「悪く思わないであげてくださいな。今回のご結婚はかなり急なお話だったらしいの。きっとあの子も慌てていたんだわ」
名前、現状、姿を消す前の様子。降り積もる言葉がいくつもの可能性を描き始めた。そろそろ頃合いだろう、寄木は女給から体を離してやわらかく微笑む。
「ありがとう、やさしい貴女」
いきなり訪ねてきた同僚の友人役を演じきった寄木は、しかし紳士的な振る舞いで怪しまれることなく、また新聞を広げて運ばれてくるコーヒーを待つ姿勢に入った。一部始終を空のカップ片手に眺めていた心が寄木のよそ行きの笑顔よりも深く、うっそりと目を細めて問いを投げる。
「どんな写真を見せたの?」
「円城氏から預かった、逢引の時の写真。探す時に役立つだろうからって無理矢理持たせられたけど、預かって正解だった」
手に持っていた写真をひらひらと揺らめかせてから、興味深そうにしている心へ手渡した。彼女は紅茶片手に写真の中で微笑む美しい人――心にとっては職場のバーの常連と、その向こうで思考を巡らせている寄木とを見比べる。
「千代、菊。名前を使い分けているのか、まったくの別人か。まだ分からないけれど、いくつか可能性が………楽しそうだね、心ちゃん」
「そう? あなたにそう見えるなら、そうなのかもね」
到着した紅茶のポットを受け取り、カップを琥珀色の紅茶で満たした心はくつくつと楽しげに笑っていた。
04
カフェでのんびりとティータイムを楽しんだ二人が外に出ると、すでに陽が傾きかけていた。街を行く人は帰り路を急ぐ務め人や学生、夜の職場に赴く人が大半になっている。寄木と心は次の目的地を目指して人波の中を歩いていた。
心が肩からかけた濃灰のジャケットと鮮やかな春のようなワンピースの色の対比が薄暗くても映えて、擦れ違う人の視線を少し引き込んでいる。心は気付いてか知らずか寄木に寄り添って、これから良いところに行くのが楽しみでたまらないと夜風に裾をなびかせていた。二人は颯爽と大通りを、そして一本入り込んだ路地へと歩みを進めていく。
街灯が整備されて夜も明るい大通りとは打って変わって、裏通りはネオンがそこかしこで怪しく光り、何も知らない客を招き入れようと手をこまねいていた。だが、二人の足は真っ直ぐ『41B』と記されている古い木のプレートがかけられた店に向かう。
「きゃっ」
「おっと」
心がドアノブに手を伸ばした瞬間、独りでにドアが開き中から出てきた男と鉢合わせしてしまった。ぶつかった瞬間に男はしっかりと心の肩に手を添えて支える。その一瞬の挙動、出遅れた寄木は行き場のなくなった手を彷徨わせるしかなく、仕方なくぶつかった衝撃で落ちてしまったジャケットを拾った。
「すまない、怪我は……あれ、心さん。今から?」
「こんばんは、清さん。ありがとう、大丈夫。今夜はデートで来たの」
「そりゃあ良い。そっちの旦那も、お連れさんに悪かったな」
「いえ」
心の無事を確かめてから、寄木にもしっかり頭を下げて心が清さんと呼んだ男は路地を抜けて大通りへと去っていった。慣れた様子で車を捕まえる背中を見やりながら寄木は心に問う。
「常連さん?」
「ええ、どこかの会社の偉い人なんですって。良い男でしょう?」
「そうだね」
良い男かはともかく、若い青年にしてはやけに堂々とした人だったと寄木は少し羨ましさを感じながら心と連れ立って改めて店に入る。琥珀色の明かりがやわらかく照らす店内は数人分のカウンターといつくかのテーブルが並べられ、小ぢんまりと落ち着いていた。心はカウンターの奥でグラスを磨いていた初老の男に手を振ると、その人は驚きと喜びの色が混ざった表情で二人を迎え入れる。
「心、今日は休みだろう?」
「今日は一日、寄木くんとデートなの。最後に飲んで帰ろうっておねだりしたのよ」
「そうか、なら良い時間にしないとな」
店の一等奥、カウンター席の端を陣取った二人の元へマスターがカウンターの奥から手拭きを渡しながら低いバリトンボイスで言葉をかける。
「寄木嬢、ご無沙汰している」
「こちらこそ。いつも心ちゃんがお世話になっています」
「それこそ俺の台詞だ。あんな器量良し、他にいない」
ぱちり、と茶目っ気たっぷりにウインクを寄越した男はバー41Bのマスターだ。寄木にとってこの街における親のような、いつ訪れてもあたたかく迎えてくれる安心感がここにはある。
「心、注文は?」
「そうね……この間入ったウイスキーがあったでしょう?」
「ああ、まだ残っているぞ。寄木嬢は?」
「……心ちゃん、選んでくれる?」
「じゃあ、キティで。ジンジャエール多めにしてあげて」
逡巡して見せた寄木を一瞥して、心は自身と今日のデート相手のための一杯を注文する。マスターは元々答えが分かっていたのか、心の答えを聞く頃には仕事に取りかかり始めていた。
店に入ってから、やっと落ち着いた寄木は気取られないようにちらりと店の中を見回す。まだ夜の浅い時分だからだろう、カウンターもテーブル席もまだ空きがあり、大人たちが密やかなお喋りと上品な酒精がもたらす空気の中で戯れていた。
「失礼します。心さん、こんばんは」
席の後ろから不意に男が声をかけてくる。寄木と心が振り返ると、マスターと同じく黒一色の服装に身を包んだ若い男が人好きにする笑顔で乾き物の入った小皿を配膳しようとしていた。
「こんばんは、京ちゃん」
「そちらがいつもお話しされている寄木さんですか?」
京ちゃんと呼ばれた男はまるで子犬のような好奇心に満ちた眼差しを寄木に向けている。以前寄木がバーに来た時には居なかった若い男、子犬、そして心の接している様子を見て寄木は合点がいった。
「初めまして、寄木です。いつも心さんがお世話になって」
「こちらこそ! 改めまして、橘京三郎です」
「少し前からここで働き始めたの。何でも前向きで良い子なの、お客さんからも評判がよくってね」
「へえ、期待の新人さんだ」
「へへ……いつか自分の店を持つのが夢で。マスターのところで修行させてもらっています」
にこにこと夜に見るには眩しい笑顔で橘は照れながらも仕事はテキパキとこなしている。配膳を手早く終わらせると、寄木が適当に椅子の近くに置いた鞄を籠に、ジャケットをコート掛けにそれぞれ整えていた。仕事柄だろうか、視界が広くて心配りが上手らしいことを寄木はこの一連の仕草で勘付く。
「京三郎さん、さっき出ていった男性のことなのだけど」
「清さんですか? 何かありましたか?」
一礼を残して立ち去ろうとしていた橘青年を寄木は袖を引いて呼び止める。彼は不思議そうにしながらも、同時に真剣な表情を見せた。
「実は落とし物を拾ってね。届けたいのだけど、常連さんならまた来るかな?」
「えっ! いや、その……」
「ちなみに、落とし物って写真なんだ」
分かりやすい狼狽え方に寄木は内心吹き出しそうになりながら、平静を保って橘をどんどん手繰り寄せにかかる。懐から取り出した写真を手渡すと、橘の笑顔が明らかに苦い顔に変わっていった。重大なやらかしを見つけてしまったような、自分にはどうにもならないことを見つけた焦りの色。あまりに分かりやすすぎる青年に逆に寄木が罪悪感を覚えるほどだ。
それでも仕事は仕事だ。まだ狼狽えたまま何かを言う決心がついていない様子の橘にもう一歩踏み出せるように、寄木は背中を押す。
「恋人の写真だろうから困っていると思うんだ。どうにか届けてあげたかったのだけど……」
「……こういうの、あまり良くないんですけど……」
口を手のひらで覆って熟考する仕草を見せた橘はひとしきりうんうん唸って、何かを決したようにカウンター席に座る寄木の耳にだけ入るよう、そっと体を寄せる。
「清さん、明日から転勤で遠方にお引越しされるらしいんです。朝一番の汽車で発つ、と」
それだけ言い切ると橘はふんわりとした甘い香りを淡く残して、元の位置に戻る。子犬のような笑顔はどこへやら、橘は追い詰められたような酷い顔をしていたが逆に寄木はにこにこと含みのある笑顔を浮かべていた。今回のお礼は彼に似合うコロンにしよう、と寄木は頭の隅に記憶を残す。
「ありがとう、京三郎さん。明日の朝、駅に行ってみるよ。もちろん心ちゃんと一緒にね」
「はい……あの、本当に秘密にしてくださいね……」
まだ狼狽えている青年に探偵はにこりと綺麗に笑って見せた。
「もちろん、約束は守るさ。そうだ。後で電話を貸してもらっても?」
「あ、はい、ご使用の際はお声がけください」
二人の様子を見守っていた心はグラスを片手に余裕たっぷりに微笑んでいた。寄木も心も笑顔なのに橘は何故か謎の圧を感じて思わず後退る。
「寄木くんの口の固さは国宝級よ、安心して。あ、マスター。同じのがほしいわ」
「……いつの間に飲んじゃったの」
いつの間にか供されていて、いつの間にか空になっていた自分のグラスを見て寄木は呆れたように溜息を吐いた。心は悪びれもせず、酒精で少しだけあたたかくなった頬を寄木の腕にくっつける。
「次のが来たら乾杯しましょ」
「……電話をかけてからにしよう。お酒は仕事終わりにいただきたいからね」
05
真冬ほどではないにしても夜明けすぐはまだ冷える時節だ。コートと首巻き、手袋を装備してもまだ震えるほど寒い。寄木と心は人がほとんどいない汽車の駅で白い息を吐いて、幕が上がるのを待っていた。
「お花はいかがですかー! あっ、お兄さ……お姉さん?」
まだ人出もまばらな駅のホームで始発待ちの旅客に花を売り歩いている少女が二人の近くを通りがかる。分厚くて黒いコートと深緑色の背広を纏う寄木に少女は首を傾げながら、花のたくさん入った籠を掲げて見せた。
「お姉さんで合っているよ。お花、いくらかな?」
「ありがとうございます! 六銭です!」
寄木は丁度コートのポケットに入れっぱなしにしていた小銭を少女に渡し、代わりに籠から赤い花を選び取る。今日初めての売上だったのだろう、嬉しそうに跳ねながら次のお客を探しに少女は駅のホームを駆けていった。
逞しい背中を見送ってから、手元の花を立ったまま半分寝ている心のもこもこした首巻きに挿してみる。白い毛糸を大きなケーブル編みで仕上げた首巻きに赤がよく映えて寄木はふと口元をゆるめる。
「ダリヤね、可愛い」
「うん、よく似合っているね」
寒風吹きすさぶ中であっても、二人は花に彩られたひとときの和やかな時間を過ごす。
「さて、そろそろ頃合いだけど……」
「やあ、おはようございます、寄木先生、助手さん」
カツカツ、と質の良い革靴を駅の石畳で鳴らして数日振りに会う依頼人、円城薫が姿を現した。後ろに控えている女性は秘書だろうか。こちらもきっちりとした上質なスーツを着こなして影のように円城氏に寄り添っていた。
「おはようございます。昨夜は夜分にお電話をしてしまい、失礼しました。しかも朝早くに呼びつけてしまって」
「いえ、依頼の完遂のためと言われれば何だって」
「そちらは秘書さんですか? 貴女も、朝早くに申し訳ありません」
「……いえ」
まさか自分にも声がかかるとは思っていなかったのだろう、秘書は一言だけ発すと円城の後ろに引っ込んでしまった。
「それより、千代が見つかったっていうのは本当ですか?」
「じきに分かりますよ」
やがて駅のホームに高い汽笛の音が響き、始発の汽車が滑り込んできた。しゅうしゅうと荒く呼吸するように停止した汽車の側面から蒸気がもうもうと巻き上がる。
「あら? もしかして、心?」
蒸気の向こうから鈴のような声が心を呼ぶ。心は呼ばれるその時を待ち構えていたように、にっこりと微笑んで待ち人を迎えた。
「お菊さん、清さん、おはよう。こんなところで奇遇ね」
「え、心さん? 昨日の紳士も一緒に旅行かい?」
菊と呼ばれた女性の隣りに並び立っていたのは、昨夜バーの出入り口で心と鉢合わせした男だった。大きな旅行鞄を両手に持って、明らかにこれからこの始発に乗り込もうという様子だ。
「千代!」
「えっ……!?」
「探したんだぞ……! 一体今までどこに……っ」
蒸気が晴れるまでは保つかな、とぼんやり考えていた寄木の予想よりもずっと早く円城は彼の許婚と思しき女性に詰め寄ろうとして、寄木の横を駆け抜けていった。しかしその手は『千代』にふれる前に『菊』の隣りに並んでいた男によって遮られる。ギリギリと音がしそうなくらい円城の手首を握り込む男は鋭い目つきで邪魔者を睨み上げた。
「なんだ、君は?」
「彼女は菊さんだ。人違いじゃないのか」
「菊? 君こそ、取り違えているんじゃないか? 彼女は私の許婚だ、生まれる前からそう決まっている」
始発に乗り込もうと徐々に人が集まり始めた駅の片隅で一触即発の修羅場が仕上がった。睨み合う男たち、その間で怯えきっている女性、にこにこと笑みを絶やさない心。
「みなさま」
膠着しきった状況の中、一歩踏み出したのは寄木だった。芝居がかった声音は下手な舞台役者よりもよく通る。睨み合っていた男たちも泣き出しそうな女性も一様に寄木を見つめ、次の手を待っていた。
「私、寄木と申します。下町でしがない探偵業を営んでおります。ここで巡り合ったが逢坂の関。不肖ながら私から事の顛末をご説明しましょう」
まるでそう決まっていたかのように、立て板に水を流すような言葉を並べ立てながら円城の手を握る男に手を添えて、自然と距離を取るように引き剥がす。
「まず、こちらにおわしますは円城財閥の若番頭、薫殿でございます。そちらの麗しい女性……千代さんを追って、昼夜問わず駆け巡ってここまで辿り着かれました」
寄木はゆっくりと渦中の三人の間を歩き、一つ一つ言葉で今を照らし出していく。
「千代って……この人は菊さんだって言ってるだろう? 何を適当なことを」
「一つずつ明かしましょう、水田清一殿……いいえ、清さんとお呼びしましょうか?」
名前を呼ばれて男――水田はぐっと言葉を飲み込む。寄木は流し見ただけだったが、この場の統べる者としての圧が水田だけでなく口を開きかけていた円城をも黙らせた。
「『千代』と『菊』は正真正銘、同一人物……場によってお名前を使い分けていただけのことです。千代さんは円城財閥直下の子会社のご令嬢……親同士の約束で薫氏とは婚約関係にありました。お二人が生まれる前からね」
寄木は二つの名前を持つ女性に向き直る。
「お二人の関係は良好だった。しかし、千代さんはご家族にも薫氏にも隠れて、名前すら変えて街で働き始めます……理由は出来ることを増やすため、だそうですね?」
「……どうしてそれを……」
「それを調べるのが探偵ですから」
探偵の表情には怒りも何もなく、むしろ穏やかな微笑みすら見せていた。なんでもない世間話をするように、彼女がひた隠していた秘密を明るみにしていく。その責に向き合うように、寄木に出来ることは丁寧に言葉を並べていくことだけだ。
「その職場で出会ったのが、水田清一さん。円城財閥と同じ貿易関連の総合商社、瑞浪商店の海運部門をご担当されている……薫氏とは商売敵と言えるでしょう」
「やっぱり……どこかで見た顔だと思ったら、瑞浪の海賊か」
「はん。こっちからすればあんたの方が賊だろうよ。鉄柵の円城は自分の庭に囲い込むためなら何でもやるって評判だぞ」
また掴み合いでもし始めそうな二人の間に割って入った寄木はまだ言葉を続ける。
「因縁あるお二人の間、千代さん……あるいは菊さんはそれぞれの自分を演じて生きていました。すべては自分の未来のために」
未来、という言葉に人一倍早く反応したのは円城だった。戦慄いていた口元と手指へ一気に力が入る。
「未来なら、私と一緒にいれば何もかも上手くいくと……ずっと言い聞かせてきたじゃないか!」
「あんたのそういうところが彼女を追い詰めたんだって、まだ分かんねぇのか?」
待っていたと言うように怒気を孕んだ売り言葉に買い言葉の応酬が始まる。男たちの間に挟まれた女性はおろおろと双方の顔を見比べるだけだ。転がり始めた岩を止めて怪我を負いにいくことはしない寄木は一歩退いてこの物語の行く末を見守っていた。
「私の方が彼女のことを理解し、支え、共に歩いてきた。彼女を世界で一番愛しているのはこの私だ! これを見ろ!」
円城が懐から取り出したのは上等そうなリボンで飾られた小箱だ。丁度真ん中に切れ目が入っており、男が大きな手でその封を開くと中には美しい流線が重なって形作られた一対の指輪が座していた。
「これは彼女のための婚約指輪……私たちの関係の深さを示す証拠だ!」
「……そ、んなこと……ならどうして浮気なんて……!」
「は、浮気……?」
寝耳に水だ、と円城が目を丸くして驚く。その表情は赤く、青く目まぐるしく変化して忙しない。
「浮気性のくせに束縛してくる男から逃げたい、と。彼女は俺に助けを求めてくれたんだ。」
「そんな……何を根拠に! お前のでっち上げじゃないのか!」
どちらともなく相手に掴みかかろうと二人の男が踏み出した瞬間、汽車が鋭い汽笛と一緒にまた蒸気を吹き出した。一瞬にして曇る視界の中、強い風が吹き抜ける。
ばくん。
形容しがたい音が聞こえたかと思えば、突風のお陰で先ほどよりも早く蒸気が晴れていく。明るくなった修羅場には血気盛んな様相からは想像がつかない、膝から崩れ落ちた円城と水田の無惨な姿が晒し上げられていた。
「……な、に……どうしたの!?」
「……心ちゃん……」
「ごめんね、寄木くん。あんまりにもうるさくて……つい……ふふ」
半ば恐慌状態の千代、あるいは菊とは対照的に、溜め息を吐く寄木と今もなお照れた様子で笑っている心は平常そのものだ。
ただの修羅場かと遠巻きに見物していた始発便目的の旅客も大の男が二人も倒れているのを見て、ざわめき始める。
「若様!?」
「……白檀さん」
少し離れたところから様子を伺っていた円城の秘書も駆け寄ってきて、虚空を見つめたまま動かない魂の抜け殻のようになってしまった主を抱き起こす。何度声をかけても自信に満ちた眼差しが再び秘書と結ばれることはない。水田も同様にどこでもないところを見つめたまま、仰向けに寝た状態から起き上がる素振りがない。
「……千代様は勘違いをされていらっしゃいます……その浮気相手というのは、他ならぬこの私でございましょう」
聡い秘書はがっくりと肩を落とし、それでも主の名誉を取り戻そうと再び言葉を重ねる。
「若様は貴女に一等似合うものを贈りたい、と……ずっとお悩みだったのです。だから、誰にも気付かれないように仕事上がりに下町のバーに通っては、貴女と年頃が近いからと白檀めにご相談いただいていたのに」
「……そういうのが重いんだってば……」
「は……?」
一瞬、この場にいる人の時間だけが止まる。駅舎の方から駆けてくる駅員が寄木から見ると、やけにゆっくりと動いているように感じられた。
「あーあ、言っちゃった」
それまでの狼狽え方は蒸気と一緒に消えてしまったのか、大きく溜め息をついて首の後ろを掻く。その女性は気怠そうに自分のために修羅場を繰り広げていた男たちをチラリと見遣った。
「薫さんは良い人だったんだけどね、私にはちょっと重くって。彼には悪いけど、本当の私を分かってくれそうな人に会えたから一緒に行くことにしたの」
上品な白い舶来物のコートの裾が地面についてしまうのもお構いなしに女性は膝をついて、倒れた円城と水田の頬にそれぞれ手を添えて様子を窺う。
「それを二人ともこんなにしちゃって……もう駄目ね」
あっけに取られて何も言えない白檀秘書を横目に、いくつもの名を持つ女性は膝についた埃を払って立ち上がる。
「まあ、良いわ。私を分かってくれる人なんて星の数ほどいるもの。家柄も何もなくったって、私だけを見てくれる人を探すことにするわ」
水田に持たせていた荷物の一つを両手で抱えて、立ち去ろうとする女性に黙って想いを聞いていた寄木が問う。
「貴女はこれから何処へ行くのですか?」
「さあね。でも何とかなるわよ、きっとね。それでは探偵さんと腹ペコさん、未来永劫出会わないことを願って」
カツカツと高い靴の音は円城の革靴とも、水田のそれとも異なる響きだった。歩幅は大きく、跳ねるような足取りが絶望の淵にいる人の前で一瞬だけ止まる。
「……白檀さん。貴女のその一生懸命なところ、羨ましかったのよ」
追い縋ることも、一言だけぽつりと零した言葉の返事すら認めない潔い背中は修羅場を生き抜いた面々に見守られ、汽車の中に姿を消した。
高い汽笛の音がまた響く。丁度最後の客が乗り込んだのだろう、汽車は駅から次の目的地へと滑り出していった。入れ替わるように駅員とその応援がやっと修羅場に辿り着いて、倒れ伏す男たちを介抱し始めた。きっと明日の一面記事になる場面にいることをやがて全員が知るところになるだろう。
静かに泣きじゃくる白檀秘書にコートをかける寄木に心が擦り寄る。風を起こした時に少し乱れた髪を手で梳くと、心は気持ち良さそうに目を細めた。
「ねえ、寄木くん。後片付けが終わったら、あのサンドイッチが食べたいわ」
「そうだね。次の週末にでも行こうか」