day019_深夜のジェラート

夜半過ぎ、身にまとったスーツと同じくらい草臥れた様子の男が一人、とぼとぼと帰り路に就いている。

重い足取りの原因は彼の定期入れのせいだった。確かに昨日までスーツのポケットに入っていたのに、今朝駅に着いた時にはなくなってしまっていたのだ。まだ警察にも届いておらず、やきもきしたまま休日を迎える憂鬱を思うと自然と溜め息が漏れる。
「ハギナガさーん」

いつも家までの近道に使う住宅街の路地裏に入ったところで、不意に声が男の耳に届いた。まさかこんなところで呼びかけられたことに疑問を感じつつも、男──ハギナガは周囲に視線を巡らせるが人の気配は自分以外にないことを確認出来ただけに終わる。同時に夜闇の中にぼんやりと浮かぶ白い壁を見つけた。あたたかみのある橙色の明かりがガラス戸から漏れていて、どうやら店らしいことが分かる。

その明かりの中から青年が向けて手を振っていた。しかも、もう片方の手に見覚えのあるものを持って。
「あっ、それ!」
「昨日だったかな? 落としたでしょう」
「ありがとうございます、助かりました……!」

思わず疲れも忘れて駆け寄ったアキナガは迷いなく明かりの中に入り、青年から定期入れを受け取った。安堵の息が漏れると同時に、自然と踏み込んでいた店内にはたと意識を向けることになった。

青年と客との間を隔てるショーケースには色とりどりのジェラートが並び、この手の甘味に詳しくないハギナガにも上等なものだと分かる。
「アイス……いや、ジェラート屋さん?」
「ええ、夜はかんたんなカフェバーもやってますよ」
「へぇ……素敵なお店ですね」
「そうでしょう、そうでしょう」

褒められて心底嬉しそうに青年は胸を張っている。そんなに歳は変わらないだろうに立派な店を構えている、対して自分は。そこまで思考が巡りかける前にハギナガは慣れたように頬に笑顔を貼り付けた。
「あの、折角だからジェラートとドリンクいいですか?」
「勿論! ちなみにジェラートはミルク、ドリンクはエスプレッソマティーニがおすすめです」

男の言葉を聞いて店員の青年は一層嬉しそうにショーケースを指しつつ、冊子になった写真付きのドリンクメニューを開けて見せた。
「ジェラートにホットドリンクですか?」
「そう。冷たいものを食べたら、あったかいものがほしくなりますから」

ジェラートもドリンクも書かれた名前はどれもハギナガにとって馴染みのないものばかりだったが、たとえ理解出来なくてもきれいな写真がその意味を教えてくれる。気の利いた店だな、どこかで活かせないか、とつい商売人の目線で見てしまっていることに気付いてハギナガはまた思考を止めた。折角の休前日なのだから仕事のことは忘れたいと思うのは至極当然のことだろう。

止めた思考のまま、男は勧められたミルクのジェラートとエスプレッソマティーニとを頼んだ。目の前のショーケースから淡い白がゆるりとすくわれて、店のロゴが控えめに印されたカップに入れられる。そんな動作一つ取っても青年はひどく楽しそうで、心の底から仕事を──自分の作るものを愛していることが伝わってくる。
「まずジェラートからどうぞ」
「ありがとうございます」

カップと合わせて手渡されたスプーンで美しい雪山を切り崩し、一口。ハギナガの脳裏には大昔、家族と赴いた牧場の思い出が過ぎっていた。鮮度が大切だから、とその場でしか提供されていない特別な牛乳。
「……うまい……」
「本当ですか? ドリンクもすぐお出ししますね」

たまに口にするコンビニやスーパーの甘味とは訳が違う、そもそも比べることすら失礼なほどだ。ゆっくり味わおうという考えなど吹き飛んで、夢中になって男は懐かしい味を堪能していた。言うまでもなくドリンクが来るとっくの前にカップは空になってしまっていて、手持ち無沙汰になってしまったハギナガはコーヒーの香りを立ち昇らせる青年の手元を眺めることにした。
「申し訳ないですが、そんなに見つめても早くはならないですよ」

くすくす、と楽しそうに笑う青年につられてハギナガの表情もほぐれる。本当はすぐに帰って眠ってしまいたいほど疲れていたのに、不運が招いた思わぬ幸運が二人だけの空間に穏やかな空気を流し込んだ。

じきにきれいになった紙のカップと引き換えに陶器のカップを受け取ったハギナガは、自分の鼓動が少し早くなっていることに気付く。ゆるく震えるコーヒーの水面に口をつける、ただその瞬間がこんなにも楽しみだなんて。

こく、と一口飲むと、ジェラートに冷やされたからこそよく分かる熱が下りていく。勿論、味も香りもこれまで気を遣わない酒に親しんできたハギナガが味わったことのない芳醇さで、これが丁寧な酒精なのだと体の芯から感じ入っていた。
「……うま……こんなに美味しいカクテル? 初めて飲みました。え、うまいな……」
「よかった、飲みにくいって仰る方もいるんですけど……ハギナガさんならお好きだと思って」

ふ、ともう一口を飲もうとしてハギナガは動きを止めた。気にかかっていた疑問がいくつか目の前にあるまま、この贅沢な時間を縮めてしまうのはあまりにも勿体ないからだ。
「……どうしてコーヒー好きって分かったんですか? それに名前も……」

素直すぎるほどの問いに青年はやや目を丸くして、そしてまた嬉しそうに微笑んでみせる。それはこれまで接客として見せていたものではない、彼らしい笑みだった。
「僕、鼻が利くんです。あ、名前は定期見ちゃいました。ごめんなさい」
「あ、いえ、それは全く。むしろ助かりました」

深々とお辞儀しあった二人の間には不思議と店員と客というよりも、どこか血の通った何か違ったものが結ばれてようとしていることを互いが感じていた。それは子どもの頃、公園でたまたま出会った子と遊び、名前も知らない友達になるような懐かしい感覚に似ている。

ぽつぽつ、たまに言葉を交わしながらやわらかい酒精と戯れていた二人だったが、やがてハギナガのカップが空になってしまう。お代わりを頼むことは容易い。だが、それをしてしまうにはこの空間は勿体ないという想いが男の手からカップを青年に戻させた。
「ご馳走さま。遅くまですみません」
「いいえ、夜は二時頃までやっているので。また気が向いたら寄ってください」

にこり、と夜も遅いのにも関わらず太陽のような青年の笑顔はいつも肩の上に重みを感じている男の視線を上向きにするだけの明るさがあった。店に入ってきた時はこの世の終わりのような悲壮感さえ漂っていたとは思えないほど、ハギナガの頬には生気が灯っている。
「……その、また来ます」

一歩、片足を店の外に出してからハギナガは再訪の希望を口にした。そうしないと、ずっとここにいたいと思ってしまいそうなほど、店の空気は彼にとって恐ろしく心地よかったからだ。

良い店に逢えた、と思うハギナガと同じように、良い客だと青年もまた喜ばしく思っていた。だからこそ引き止めることも、言葉を重ねることもせず、彼はただ微笑む。

また、がいつか訪れるように願いを込めて。
「おやすみなさい、良い夜を」

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