習慣
夜の散歩はユリアスの数少ない習慣の一つだ。散歩は機関本部の広い敷地の内、自身の研究室兼自室のある塔の中で完結する。時折手紙や報告書、取り寄せた本が届く私書箱が空であることを確認してから図書室に赴いてぐるりと一周し、すぐ近くの食堂で飲み物を調達したら部屋に帰る趣味と実益を兼ねた時間なのだ。
研究室や実験室が整頓された本棚のように並ぶ研究塔は昼間こそ外界からの来客や内部の人間で混み合う賑やかな場所だが、日が落ちてからは廊下で誰かに擦れ違うことすら稀になる。淡い月明かりと常夜灯だけを頼りに暗い館内をひっそりと歩いているとユリアスの足音しか聞こえないほどに。
だが、今夜は波の音がやけに響く。彼は不意に手近な扉から渡り廊下に出て、外の様子を窺うことにした。研究塔から本館へ伸びる渡り廊下に一歩踏み出すと、ビュウと潮風が彼のカップから上る湯気と外套とを吹き上げる。数日前から機関のある学術島にも次の季節を乗せた風が訪れていたが、どうやら本格的に花の季節が来たらしい。その証拠に季節の変わり目に吹く風が起こす高波が月明かりに照らされて暗い水面にあって一際白く輝いていた。
その波間に季節の移りを喜ぶ友の顔を見たような気がしてユリアスは一つだけ大きく溜息を吐く。伸ばしっぱなしの髪をかき乱した手で外套のポケットから紙片とペンを取り出し、コーヒーの入ったカップを置いた欄干の上で短い文章を書きつけた。インクがまだ乾ききっていない紙面にふう、と息を吹くとただの紙片はひとりでに鳥を象る。近所同士の連絡に使われてきた極めて初歩的な魔術だが、ユリアスの手で編まれた鳥は遠い西の島で旅をしている人にも届くほど強い翼を具えていた。
「頼む」
鳴かない鳥はユリアスの手の平からふわりと飛び上がると、くるりと作り主の周りを一周して西の空へと風に乗って飛び去っていった。遠ざかる影が見えなくなってからすっかり冷えたコーヒーを手に、彼は塔へと引き返す。まだ夜明けまで時間がある。数日中にはなくなってしまう静かな夜のうちに仕事を片付けてしまわなければ、と逸る足取りでコーヒーの水面が波立っていた。