day034_次の誰かへ
朝、布団の中から出辛くなった。前髪が流れて剥き出しになった額に青白い空気がふれて、昔実家でストーブを点けてほしいと強請った日を思い出す。寒気の匂いでもこもこのマフラーを編んでもらった思い出も一緒によみがえってきて、冷えた足先に少しだけ熱が戻る。
「そうだ、衣替えしよう」
もぞもぞと布団から這い出して、体がまた冷える前に急いで着替えてしまったら私はすぐに家を飛び出して近くのモールに足を向けた。びゅうびゅう吹き付ける風で去年買い替えたマフラーがなびく。今年はコートを新調しようと思っていたのだった。ついでにセーターも調達したいかもしれない、とあれこれ思案していると視界の端に見慣れない店を捉えた。
看板も出ていないのに店だと分かったのは、丁度人が出てきたところだったということと、ショーケースのマネキンのお陰だ。淡いグレーのチェスターコートと濃い煉瓦色のセーター、細身の黒いボトムを纏ったマネキンはこれまで見たどんなコーディネートよりも上品で、妙に輝いて見えた。モールに入っているいつものブランドにしようと思っていたけれど、予定変更した方が良いらしい。
お店に近付いていくと、前のお客様を見送っていた店員さんがこちらに気付いて微笑んでくれる。
「いらっしゃいませ。どうぞご覧くださいね」
「ありがとうございます」
誘われるままお店の中に足を踏み入れると、思ったより奥行きのある空間の中央にテーブル、それと部屋のあちこちにマネキンが数体立っている。それぞれコンセプトがあるのか、ショーケースのコーディネートとはまた異なった佇まいで誰かを待っていた。さっきのお客様のお買い物の後だろうか、何も身につけていないマネキンが一体だけいるが不思議とそれも調和しているように見える。
「お客様、お気に召したものがあればお申し付けくださいませ。ぜひお手に取っていただければ」
さっきまで私の背後にいた店員さんはいつの間に入ったのか奥の部屋からひょっこり顔を出して、こちらにまた微笑みかけてくれていた。折角一目で良いな、と思える一着に出会ったのだから勇気を出して。
「あの、ショーケースのコートを見せてください」
いつもの自分なら気後れして、すぐに店から出て行っていただろう。でもちゃんと言えた。店員さんはやはりにこにこと笑って、服を数着手に持って中央のテーブルに置いて見せてくれる。きらきらして、まるで私を待っていてくれたのではないかと思えるようなコートはそうっとふれると滑らかで吸い付くような肌ざわりだった。もし羽織ったらどうだろう、大人っぽいシルエットを着こなせるだろうか。
「お試しになられますか?」
逡巡する私を知ってか知らずか、店員さんはやわらかく次の一歩を勧めてくれる。つい無言で頷いてしまったけれど、特に何を言うでもなくコートを手に背後に回った店員さんは慣れた様子でぎこちない私にコートを羽織らせてくれた。
するり、と滑り込むように腕が通る。しっかりとした厚手のコートなのに軽くて、なのにあたたかい。側にあった姿見に映る自分はいつもよりスラリと背筋が伸びて、何より楽しそうだった。
「このコート、一着ください」
「はい、ありがとうございます」
物は勢い、とばかりにマネキンが着ていたセーターとボトムも一緒に包んでもらうとふつふつと黄色い波が押し寄せては返していく。今なら分かる。先に帰って行ったお客様の足どりが軽かったのはきっとこういうことだ。
「ありがとうございました、またのお越しを」
店先まで出てきてくださった店員さんに一度深くお辞儀して、お店の名前が印刷された紙袋を提げた私は来た道ではなく街の方へと足を運ぶ。少しだけ寄り道をしよう。きっと今日はもっと良い日になる。そして次の誰かと擦れ違うのだろう。