テウト塔の怪人
海辺の都市にそびえ立つ、二本の塔。都市の中からは勿論、近海からでも見えるこの二本の塔は国立学術機関が所有する研究施設だ。高い二本の塔はそれぞれ数えきれないほどの研究室を持ち、昼夜問わず学者たちが自分の知識を深め続けている。
東塔は《テウト塔》と呼ばれ、文学や語学などの文系分野を中心とした研究室が多く入っている。また、西塔は《セシャト塔》と呼ばれ、科学や物理学などの理系分野の研究室が中心となっている。
国中からスカウトを受けて、もしくは自らの足でこの塔に入る学者たちは皆、それぞれの分野のプロフェッショナルである。彼らは熱中してしまうと与えられた研究室から一歩も出ずに、それどころか寝食を忘れて研究にのめり込んでしまう者が多く、過去に何人か研究室で無残な姿を発見されるという事例も起こっている。そのため、外部の人間に掃除や食事を頼むことで生存を確認するサービスを受けることが機関によって半ば義務付けられており、一部のサービスを除き、利用料は機関によって支払われることになっている。実際、ほぼ全ての研究員がサービスを受け、毎日研究に没頭している。例外的に、既婚者はパートナーが生存確認の役割を果たすため、サービスの利用はしていないことが多い。
もっとも、どこにでも例外中の例外はある。
「あの、先輩。《テウト塔の怪人》って本当に実在するんですか?」
「なんだ、もうあいつの噂を聞いたのか」
真新しい白衣に身を包んだ青年が幾分か慣れた様子の青年に問う。質問をした彼は手に本の山を持って、肩にも紐で本を数冊縛って引っ掛けている。まさにこの塔に入ったばかりの新人といった初々しい姿だ。
「毎年新人が入る時期になると噂になるんだが、今年もか」
「はい、多分知らない人はいないんじゃないかな……じゃなくて、質問に答えてくださいよ」
「まあまあ、そう焦るなよ。気になるなら、研究室の前で張ってな。今日あたり来るだろうから」
「誰が来るんですか?」
「見てりゃ分かるさ。ほら、間に合わなくなるぞ。荷物は見ててやるから行ってきな。あ、くれぐれもドアをノックしたりするなよ。見てるだけだ」
先輩に促されて後ろめたさを感じつつも、新人は好奇心に負けて荷物を手頃なベンチに降ろして、塔の最上階へ走って行った。先輩研究員は自分がかつてそうされたように、手を振って彼を見送るのだった。
新人は塔を登る間、聞いた噂を反芻していた。
研究の内容の問題で、いつもどこかで明かりがついているセシャト塔とは異なり、テウト塔は基本的にほぼ全ての研究室の明かりが落ちる。だが、そのテウト塔の一番上階の東、つまり機関のどこよりも早く日の出を迎える研究室《10001号研究室》は常にデスクライトが消えない。住人を知っている者であれば誰も近付かない10001号室は、人の出入りがほぼ皆無だ。掃除も食事も、外部のサービスは入っていない上、住人は一年のほとんどをその部屋の中で研究をして過ごす。外に出るのは、月に一度、深夜の海に出かける時と、年に一度の学会に出席するときだけ。
どんなに研究に没頭していたとしても一週間研究室にこもっていれば、外部サービスの人間なり、機関の職員なりが動くことになっている。これも研究室で事例を出さないために、機関が定めた規定だ。だが、彼だけは外部から踏み込みを受けることがないという。それはつまり、彼が何か大きな権力を持っている、もしくは実在しない、ということではないか。
噂の真相を確かめるべく、新人は先輩の言う通り、例の10001号研究室の前で誰かが来るのを待つことにした。
一時間ほどが経っただろうか。途中、何故かところどころ凹んでいるドアをノックしたい衝動に駆られなかったかといえば嘘になるが、彼は忍耐強く誰かが来るのを待ち続けた。
そろそろ引き上げようかと迷い始めた頃、遠くから新人は自分以外の足音を聞いた。そわそわと落ち着かない気持ちを抱えたまま物陰で息を潜めていると、高らかに靴の音を鳴らしながら長身の男が現れた。この塔では滅多に見ることがない、しかも高価そうなスーツに身を包み、素人目に見ても質の良い革靴を鳴らして、男は勝手知ったる様子で廊下を進んでいく。どうやら先輩研究員の言っていた誰かは彼のことのようだ。左手に持っていた重そうな鞄を地面に落として、男は10001号室のドアを力任せに叩き、中に来訪者の存在を伝えようとした。新人が思わず肩をすくめるほどの大音量だったが、部屋の主は一向に出て来る気配がない。
男は大きく舌打ちをして、ドアから数歩の間合いを取ると、今度はドアに力一杯横蹴りを食らわせた。これには流石に新人も驚き、音を立てて尻もちをついてしまった。当然、男に気づかれるかと思いきや、男は依然気づいていないのか、全く興味がないのか、新人の方を見向きもしない。代わりにドアに向かって何言か発している様子だ。
すると、思いっきり叩かれても、蹴りを入れられても何の反応もなかったドアがゆっくりと開き、急に伸びてきた白い手が男の胸ぐらを掴む。
中からも低い声がするが、新人の位置からは遠くて聞こえない。だが、彼は噂の真相にたどり着いた。
「元気そうじゃないか」
《テウト塔の怪人》は、確かに実在する。
「……前に来た時より、ひどくなっているんだが。掃除くらいしたらどうだ」
「そんな時間がどこにあるの」
「なら、せめて清掃くらい入れたらどうだ」
「他人を入れるのは嫌だし、手続きが面倒。あんたが来る度、毎回言ってる」
「毎回進歩がないからだ」
「進歩ならある。あんたの足元、封筒に今回の分が入ってるから持って行って」