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ガツン。

何か重いものが落ちる音が誰もいないはずの格納庫に響いた。金属の硬い音ではないから、部品や機体に異常が出たわけではなさそうだ。どうせ誰かが適当に置いた備品が落ちたのだろう。整理励行の精神を以て片付けてやろうと音の出処へ重たい体を引きずって向かう。ヘルメットか、あるいは整備器具か。一人で持ち上げられるものだと良いのだが、と音の出処に近い機体の足元を覗き込む。すると、そこには無機物ではなく人が落ちていた。
「……誰だ?」

文字通り猫のように丸まっているその人は戦闘機――A.R.Merのパイロットの制服をまとっていた。羨望の眼差しを向けられる黒いジャケットの襟には自分の階級より上であることを表す星がついている。ひとまず侵入者ではないことが分かって胸を撫で下ろす。

しかし夜中に誰もいない格納庫で倒れている上官。うつ伏せになっている上、長い黒髪に隠れて顔が見えないせいでどこの部隊の誰かも分からない。

ここ最近は実験機体の調整のために仕事場で夜を明かすことも少なくはなかったが、そうそう遭遇しない不可解な状況は困惑を通り越して面倒極まりない。しかし自分以外に誰もいない今、取るべき行動は一つだろう。持っていたツールボックスを置いて、手を伸ばそうとしたが手のひらに油がついていた。緩慢な動きで作業服のズボンに汚れを押しつけて、やっと寝そべる人にふれる。この面倒な状況もかんたんに拭い取れればいいのに。
「大丈夫ですかー? もしもーし」

控えめに肩を揺らして声をかける。だが、一向に起きる気配がない。余程熟睡しているのか。

幸いパイロットは痩身に見える。きっと疲れ果てた自分でも医務室に運ぶくらいは叶うだろう。はあ、と大きく溜め息をついて十数年振りに人を小脇に抱え上げた。今は眠り続けているパイロットと違って空を駆けることは出来ない身体も、こういう時ばかりは使い勝手が良いと感じられる。
「……ん……」

腹を押さえられて苦しかったのか、パイロットはうごうごと身動ぎして状況を掴もうとしていた。依然として目を閉じたままだが。
「……こ、こ……は……」
「起きました? 第五格納庫ですよ、パイロット殿」
「……五、番……あっち、はこん……で……」
「……マジ? 起きないの?」

目は閉じたままパイロットは格納庫の奥、医務室とは逆方向を指差して運べ、と仰せになった後、また糸が切れたように眠りに落ちた。命令の意味は分からない。目当ての方向には私が整備していた機体が次の出撃を待っているだけで、他には何もないのだ。だが、上官から命ぜられたなら従う他ないだろう。さっきよりも一人分重くなった体を引きずって、元来た道を引き返した。

ほどなくして整備途中の実験機体が暗がりの中、ぼんやりと輪郭を持ち始める。人がまるで自分の手足のように使えるように、人型に造られた戦闘機A.R.Mer。その実験機体は次世代のパイロットに向けて新しい機能と非機能が山のように搭載されている。それこそ、人間には扱えないほど。まだ火が入っていない機体だというのに、薄っすらと光っているように見える黒い装甲はまるで誘蛾灯のように私を惹きつけて離さない。今夜は特に、いや、さっきよりも美しく見えるのは私が疲れているだけだろうか。
「着きましたよー……あれ?」

実験機体に目を奪われていた一瞬、抱えていたはずのパイロットがいなくなっていた。腕に感じていた重みも確かにあったのに、まるで魔法のように掻き消えている。根の詰めすぎで夢でも見たのだろうかと頬を引っ叩くが、軽快な音とひりつく痛みが私はまだ起きていることを知らしめた。

第五格納庫に階段の噂はなかったはずだ。それでも薄ら寒さを感じたまま、私は寮の自室に帰ろうと踵を返した。

その時。ギギギ、と耳馴染みのある摩擦音が響く。思わず振り返るとまだ調整中で動くはずのない実験機体が首の凝りを解すような動きを見せていた。
「……嘘だろ……!?」

夢だ。まだ燃料も入れていない機体が動くはずがない。ぎこちなく首だけ動かしていた実験機体はやがてカメラで私を捉えたのか、ゆっくりとこちらにメインカメラを向ける。視線が交ざったように感じたと言えば笑われるだろうか。

A.R.Merには有視界通信の一つに光のメッセージ送信、つまりモールス信号を発信出来る機能を有している。丁度人間の目にあたる部位が何度かまたたいて、そして突然起動した時と同じようにガックリと項垂れて機能を停止した。
「……嘘だろ……」

重力に任せてべったりと尻餅をつく。もしかして、と見上げた黒い機体の瞳にはもう光はなくなっていた。落胆はない、むしろ力が腹の底から湧いてくる心地だ。

きっとこの実験機体は気まぐれに空を駆けて、格納庫で休んでまた飛び立つ、誰よりも自由な黒い鳥になるのだろう。その姿を一分でも、一瞬でも早く見たい。はあ、と一つ深呼吸して私は置きっぱなしのツールボックスを迎えに歩き出した。

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