二人で抜け出そう
声の主に射抜かれたクリスの動きが止まる。折角誰も来るはずのない場所を探してきたというのに、静かな時間の終わりを告げるように男が歩く度カラン、とグラスの中の氷がふれあう音がした。
「……ブラン、あなたは今夜の主役でしょう。こんな隅に来たら駄目よ、史上最年少の将官殿」
テラスの手すりにもたれて夜風にあたっていた彼女は腰にさした愛剣に肘を置いてブランが差し出したグラスを受け取る。クリスが呆れながらもグラスについた水滴を弄ぶのを見て、ブランはますます笑みを深くして自らのグラスに口をつけた。
「よく知りもしない人たちに囲まれて、ちやほやされるのはもう飽きました」
将官殿がどっかりと気怠さを隠さずに床に腰を下ろした瞬間、眼下の広場でパーティーに興じる人々の騒ぐ声が一層高くなる。主役が人の輪を抜け出してしまっていることにはまだ気づいていないらしい。何のための、誰のためのパーティーなのか夜が深まった今となってはその輪郭は酒精に溶けてしまっている。
ほらね、と言わんばかりに肩を下げるブランは先ほどまで立場を問わずあらゆる人に囲まれ、にこやかに談笑していた思わず目を逸らしたくなるほどに眩しい姿とは程遠い。寂しさ、諦観、仄かな怒りすら香る目元は、しかし先にパーティーを抜け出していた武人クリスに向ける好奇心で光っていた。
「それで? よく知りもしない私に声をかけたのは何かの罰?」
「いいえ。先輩のつまらなそうな顔が気になって。それで、一緒に行ってくれるんです?」
床に座るブランはグラスを煽りがてら手すりにもたれているクリスを見上げて問いを重ねた。丁度雲間から覗いた月明かりが酒精で火照ったブルーグレーの双眸を照らし、クリスへ向けられた強い好奇心を暴く。
「一応聞くけど、どこへ?」
「ここより楽しいところ。遠乗りでもいいし、街でもいい。あなたが楽しいと思うところへ」
クリスはグラスを伝う水滴を一筋指ですくって、手すりに線を描く。インク代わりの水が乾いたらもう一滴、また一滴。線は文字になり、意味を紡いでいく。
「私が行きたいところならどこでもいいの? どうして?」
「笑ったらどんな顔をするのか知りたいと思っただけ。どうです?」
くすくす、楽しげに誘うブランはアルコールに浸っていてなお、クリスのグラスが一向に減っていないことに気付いていた。これまでそれなりに器用に要領良く生きてきた将校にとって目の前の武人はきっとままならない人だと直感が見抜いている。浅ましい希望が真新しい階級章の下で疼く。
「……残念だけど、他を当たってちょうだい。子守は専門外」
だからこそ口をつけた気配のないグラスを突き返されても、軽薄な笑みに向けられる冷ややかな視線をもらっても、彼は分かっていたことだと一層笑みを深くするだけだった。一人分の足音がテラスから屋内へと消えていき、代わりに広場でパーティーを楽しんでいた誰かが月明かりに照らされるブロンドをテラスに見出す。煌々と何もかも照らし出すような声に呼ばれたブランは押し付けられたグラスを一気に煽って、そしてまた眼下の人々に彼らしい笑顔を見せた。
彼なりの武器を背負った将校は先の武人よりも静かに歩き出す。夜に輪郭を溶かす影のように彼との会話を楽しみに待つ人々の中へと戻っていった。
「ねえ、二人で抜け出そうか」
俯いたまま動かないクリスの肩が揺れる。硝煙の匂いが充満する戦場に在って明るすぎるまでの声音には聞き覚えがある。思い出されたのは後輩が自身の敵になることが決まった夜だ。あの日も一人、ひと気のない場所にいたクリスの元へその男は現れた。
「……今更……どこへ行けると言うのですか……」
「君が望むならどこへでも」
変わらない物言いに思わずクリスは顔を上げた。その動きに合わせるように首と手足を縛る鎖がジャラリと軋む。反体制側で刃を振るう将兵となったクリスが正規軍に囚われて数日。雲の上の人となったブランはやはり薄ら笑いを浮かべて、牢屋の中でも楽しげだ。処刑の日取りよりも先にこの男が斬りに来たのか、とクリスはじっと温度を捨てた眼差しをブランに向ける。
だが、よいしょ、と軽い所作で床に腰を下ろしたブランはブルーグレーの瞳でクリスを真っ直ぐに射抜くばかり。そこには敵意も憎しみもなく、ただ強い好奇心だけが輝いていた。数日陽の光を見ていなかったクリスは懐かしい光に思わず目を細める。
「きれいな海に泳ぎに行くのも良いし、静かな山のコテージで森林浴も素敵だ。都会で買い物も捨てがたいな。でも、どこでも君を最高に楽しませると約束する」
指を折ってあれこれ提案を投げかけるブランの楽しげな様子はまるで彼の昇進祝いのパーティーの夜の空気そのものだ。気怠さを隠さない男からは、この場が断頭台に登る者のための牢屋であることを微塵も感じられない。
「どうしてです……」
ならば、とクリスはあの夜を繰り返す。あの時の選択が二人を導いたのだとしたら、今この場で選び取る道が結末への標となるだろうことを二人は誰に教えられるでもなく理解していた。
「つまらない場所でつまらない顔をしている君より、見たいあなたの顔があるから……それに」
「……それに?」
珍しく口ごもるブランにクリスは問う。何度か唇を動かしそうになってはつぐみ、意を決したように薄い上唇を舐めたブランは気恥ずかしげに呟いた。
「……先輩なら、俺を何処かへ連れて行ってくれると思ったんです」
以前の誘いよりも投げやりで疲れが滲んでいる声音は、しかし素直なブランその人を写し出していた。常に人に囲まれ、人の気持ちの渦の中でブランらしく生きてきた顔ではなく、ただ何処へも行けなくなってしまった青年がそこにいた。
クリスは青年が自分と同じだったのだと確信する。戦場に立つ在り方を求められ、応え続けた末路の人。この先に道はないことはこの数日、牢に繋がれる間に気付いていた。クリスという武人はここで終わる。
「……及第点、かな」
「よかった、前よりは成長したってことだ」
何処へも行けない終着点なら何処へ道を外れても良いはずだ。クリスが不遜に笑うとブランは心底安心したと言うように愛剣に手をかける。微笑むクリスの目を真っ直ぐ見つめたまま、ブランは彼女を繋ぎ留める鎖を断った。重力に従って崩れ落ちるクリスを抱きとめたブランは慣れた様子でその手を取る。
「お手をどうぞ、先輩」
「随分と手慣れたエスコート。将官殿は夜もお忙しかったらしい」
「喜んでいただけるなら何だってしますよ。お陰様でいろいろ覚えてきたので」
クリスはまだ痺れが残る手を差し出された手のひらに乗せ、抱き上げられるがまま仕立ての良い軍服に包み込まれる。誰かに抱かれるなんて子どもの頃以来だ、と慣れない体勢の中で安定する場所を探そうとクリスは緩慢な動きで身動ぎを繰り返す。
やがてクリスが落ち着いた頃を見計らってブランはゆっくりと一歩ずつ歩き出す。自陣とはいえ捕虜を勝手に逃がそうというところを見られるわけにはいかない。細心の注意を払って砦を進む中、クリスがぽつぽつと言葉をこぼす。
「まずは……大きな湯船に浸かってから、ふかふかのベッドで好きなだけ眠りたい」
「いいですね。俺も泥んこだから早くさっぱりしたい」
「休んだら、美味しいご飯をお腹いっぱい食べるの。それから……何処か……遠、くへ……」
「……休める場所に着いたら起こしますから、それまでは眠っていていいですよ」
徐々に重心が下がっていく重みを腕の中に感じながら、少しでも無理をさせまいと横抱きにした上で肩口にクリスの頭をもたれかけさせる。近くなった呼吸が穏やかに、やがて薄くなっていくのをブランは顔の下で感じた。
「……そう、俺たちには時間がある。だから、何処へでも連れて行ってください」