竜の谷
数日かけて新緑の香る森の中を歩き進めると、ふと視界がひらける。どうやら街道に出たらしい。
一歩進む度に顔に当たる木の葉を鬱陶しそうにしていた愛馬ものどかな景色に機嫌を直したようで、悠々とたてがみを揺らしていた。それにしても本当に美しい場所だ、と男は疲れの滲んだ嘆息を漏らす。ずっと気を張り詰めていた深い森を抜けたのだ、一度休憩を挟んでも良い頃合いだろう。山間を吹き降りてくる強い風に背中を押されながら男は街道の少し外れた場所に荷物を降ろした。
愛馬が草を食み始めたのを横目に、男は荷物からいくつかの使い古された道具を取り出す。手際良く組み立てられたそれは絵描きのカンバスだ。適当な岩に腰掛け、男はのどかな景色を眺めつつパレットに色を作り始めた。彼が今いる街道は山に囲まれた小さな街を繋ぐ歴史ある道で、高い岩山の狭間に狭くとも広がる草原は名勝として名高い。航空機が発達した現代でもわざわざ旧街道を通って景色を楽しみに来る者も珍しくはない。もちろん、男もその一人だ。
やっと辿り着いた景色が彼の心を掴んで離さないように、時折カンバスを風に飛ばされそうになりながら男は夢中で筆を滑らせ続ける。いつも自身より優先している愛馬が近くに寄ってきて寝始めても、大きな鳥の影がよぎっても、太陽が傾き始めても彼は描くことを止めなかった。どれほど無心になって描いていただろう、カンバスに落ちる影が一つ分増える。
「何を描いているの?」
「うわっ」
声をかけられてやっと自分と愛馬以外の存在に気付いた男は勢いよく腰掛けていた岩からずり落ちた。目を白黒させる男の頭上からくすくすと楽しげな笑みと手が差し伸べられる。彼の草原のような新緑色の瞳とは対象的に、雲ひとつない空のような青色の瞳が印象的な人は軽々と男を引き上げてなお笑っていた。
「ごめん、そんなに驚くなんて」
「い、いえ……こちらこそ」
人の往来がある街道沿いとはいえ、話しかけられるとは思っていなかった男はしどろもどろといった様相でその人の言葉になんとか応えていた。地元の人間だろうか、旅には見えない軽装のその人は男のカンバスを興味深そうに覗き込んでいは時折感心したように小さな感嘆の声を漏らしている。
「すごく上手。あなた、絵描きさん?」
「あ、いえ。本業は行商人です、絵は趣味で」
「そう」
一言二言話してからはしばらく沈黙が続く。カンバスの真正面を陣取られては描き進めるわけにもいかない男は所在なさげに愛馬のたてがみを撫でて、不思議な青い目の人が満足するまで待つことにした。風で雲が流れていく様子を眺め、男の服についている紐で遊び始めた愛馬を構っていると、不意に会話の間もカンバスから目を離さなかったその人が視線を上げる。もう見終わったのだろうか、と男が声をかけようとするがその人が先に言葉を発した。
「もう引き上げた方が良いかも。そろそろ雨だから」
「え、こんなに天気が良いのに?」
「このあたりの天気は変わりやすいから。街道に沿っていくと小さな町がある、今夜の宿を取ると良い」
そう言って、その人は東の方角──遠目にいくつか風車の影が見える──を示した。
さっきまで風は強いが雨の気配などない快晴だったはずだ、と男は青い目の人の言葉に首を傾げて空を見上げる。旅慣れている男でも言われるまで気付かなかったが、うっすらと雲の色が黒くなり始めていた。水の匂いはまだしていないが、きっとこの後から雨が降るだろう。
「親切にありがとうございます」
「いいえ。忘れ物には気をつけて」
人懐っこい笑みと手を振って、その人は自身が指さした方角へ駆けていった。不思議な人の姿が見えなくなる頃、風に乗って湿気の匂いが男の鼻を掠めていく。いよいよ雨が近づいているらしい。急いで描きかけのカンバスと絵の道具を取りまとめて荷物に詰め込み、愛馬の手綱を引いて男は街道に戻った。
草原の近くには名勝目当てに来る観光客のための宿場町として発展した小さな町が点在していた。宿場町と言えば賑やかな印象だが宿自体の数は決して多くなく、部屋はいつでも満室かそれに近い状態だ。青い目の人に指し示された通りの方角へ進み、周辺でも一際小さな町に辿り着いた男は運良く最後の一室に滑り込むことが出来た。街道をもう少し進めば一回り大きな町もあるが、恐らくそちらの宿は数日前から団体客が来ているからもういっぱいだろうと宿の受付が部屋の場所と一緒に教えてくれた。
部屋に荷物を置いて、馬小屋に繋いだ愛馬の様子を見に行くと外は雨が降り始めていた。青い目の人の忠告がなければ、商売道具も絵の道具も雨に濡れてしまっていただろう。感謝の想いを抱きながら愛馬のブラッシングと食事の世話をこなして、今度は自身の腹を満たそうと併設されている食堂に行くと受付係が給仕を務めていた。賑やかなテーブル席から少し離れたカウンターに通された男はやっとひと心地ついたように大きく息をつく。森を抜けたのが昨日のことのようだ、と給仕に差し出されたメニューを眺めながらぼんやりと考える。
「幸運だったね、お兄さん。もう少し遅かったらずぶ濡れだったろう」
「雨が降ると教えてくれた人がいたんです。不思議な人だったな……」
「そんな風に思っていたんだ」
聞き覚えのある声がすぐ隣から聞こえて男は肩を大きく揺らす。一人だけだったはずのカウンター席に草原で出会った青い目の人がいたのだ。
「あなたは! どうしてここに?」
「忘れ物を見つけてね。これはあなたのでしょう?」
「これは……私の筆だ」
手に持っていた布包を丁寧に開いて出てきたのは、男の旅の道具の一つだった。慌てて道具を片付けたからだろう、使っていた内の一本をうっかり落としてきてしまったようだ。
「ありがとうございます、わざわざごめんなさい」
「いいえ、でも今度からは気を付けて。ここは風は強いから飛ばされてしまう」
椅子から飛び降りて深々とお辞儀を繰り返す男にその人は少し恐縮するように、それでも嬉しそうに微笑んでいた。
「あと、雨のこと教えてくれてありがとうございました。お陰で濡れずにすみました」
「良かった。あなたもクラウディアも無事ならそれで」
「はい!……ん? 私、馬の名前をお伝えしましたっけ?」
「あら、教えてくれたでしょう?」
そうだったか、と多くはなかった会話を反芻している内に奥から戻ってきた給仕が青い目の人へやわらかく微笑みかける。よく見れば給仕だけではない。テーブル席にいた数人連れの客やこの場にいる誰もが、青い目の人へ視線を注いでいた。男から見ても旧知の仲なのだと一目で分かるくらい場の雰囲気が和らいでいたのだ。
「姫様、何か召し上がっていかれますか?」
「ありがとう、でも今夜は行かなくちゃ」
ひらひら、と草原の時のように手を振ってその人は食堂を去っていった。
「お兄さん、本当に幸運だな。姫様に落とし物を拾ってもらえるなんて」
ひとまずの飲み物を持ってきた給仕に声をかけられるまで雨が打ち付ける戸口をずっと見つめていた男は、ややあってカウンター越しの給仕に向き直る。ぬるい麦酒に口をつけながら浮かんだ疑問を向けてみた。
「……あの人は王族の方だったんですか?」
「愛称だよ。この辺りには昔から長はいない。品があって善い人だから、ここらの人間は昔からあの人を尊敬して『姫様』と呼ぶんだ」
そう言われると確かに高貴さと呼べる気品を感じた、と男は今日二度も見た去りいく背中を想った。人を惹きつける力強さがある、あの青い目。
一層強い風が建物を強く揺らし、遠くから鳥のような何かが鳴く声が響く。
「改めてようこそ、竜の谷へ」