星読みと狼
門を抜けると足音が変わった。
かつて外敵から街を守り通したという大きな門の先は、今や交易の折衝地として名高い石畳の港街。青年イズナは背中の荷物を背負い直し、新しい街の空気をぐっと吸い込んでブーツの踵を鳴らした。
珍しい栗色の長髪を雑にまとめていておまけに上背のある彼はただ立っているだけでも目立つが、さらに大きな荷物も背負っていては注目を集めて仕方がない。大通りでは背中の荷物が邪魔にならないように端を歩いていても視線が集まるのを感じ、市場に差しかかれば店の前を通り過ぎる度に声をかけられていた。
「兄さん、昼飯にうちのパンはどうだい?」
「いやいや、そっちのより私のところのスープの方が体があたたまって良いよ!」
売り込みの声はあちらこちらからかけられるが、イズナはその一つずつに笑顔で返してゆっくりと自分のペースで朝食を吟味していた。焼き立てパンや具沢山のスープ、港町ならではの焼き魚の匂いが潮の香りと一緒に青年の鼻をくすぐる。のんびりと歩いていた足が止まったのは新鮮な野菜とベーコンを硬く焼きしめたパンに挟んだ惣菜の屋台だ。
「これ、二つお願いします」
「二つね、毎度あり!」
店番の老婆と少女に指を二本立てて示し、代金を支払う。ゆっくりとした動作でお金を受け取った老婆を横目に、少女が素早くしっかりとした手さばきでパンに包丁を入れて、瑞々しい野菜と分厚いベーコンを順々にパンに挟んでいく。淀みない手つきは何年も何年も繰り返してきた職人の技のようだ。
「お兄さん、旅の人?」
「まあ、そんなところです」
「良いなぁ、旅。私も船旅とかしてみたいな、昔のばあちゃんみたいに!」
新しいベーコンを並べたフライパンの面倒を見つつ、少女はまだ見ぬ土地や体験に想いを馳せているのか、楽しげに鼻歌を歌っている。旅に身を置いているイズナは少女の言葉に興味を惹かれて、帳簿をつけている老婆に声をかけた。
「へえ、おばあさんは旅がお好きで?」
「……船で働いていてね、ずっと旅をして暮らしていたものさ」
かつて波と遊び、風と共に過ごした日々がまだすぐそこに見えているように老婆は海の方向へ目を遣る。イズナも彼女にならって海の方を見遣り、朝焼けの中で自由に飛び回る海鳥を目で追った。
「じゃあ、いろんな土地のいろんなものを見てきたんですね」
「そうさね」
海を見ていた老婆の視線はゆっくりとイズナの背後の荷物、大きな楽器ケースへと結ばれる。じっと何かを値定めるような鋭い目にイズナは内心居心地の悪さを感じつつ、しかしどこか懐かしい圧を思い出していた。木を削り出し、自分が作り出した楽器を見つめるあの人と同じ目だ。
「その背中の、あんたの物かえ?」
「……大切な人の楽器です」
「そりゃあ、良い旅の相棒だ」
目尻に深く皺を刻んで老婆は大層楽しげに肩を揺らす。
「お待ちどうさま! ん? 何か話していたの?」
「君のおばあさんの昔の話、ね」
青年の言葉にこれ以上新しい答えを得られないことを悟ったのか、老婆は黙って少女が作った惣菜を受け取り厚めの紙で包み始める。
「しばらくこの街にいるの?」
「ああ、ここで星読みの仕事があるんだ」
「ホシヨミ?」
「おや、若いのに今どき珍しいね」
「はは、よく言われます」
聞き慣れない単語に首をひねる少女とは対照的に老婆は驚きつつも感心していた。老婆の言う通り星読みは魔術の進歩の影響を受けて担い手が減り、今や数えるほどしか存在しない。若い世代はその存在すら知らないままでいられる前時代の技術とその継承者だ。
そんな稀有な存在であるイズナは老婆から包みを受け取りつつ、からっとした空を見て何か思い出したように目をしばたたかせた。
「ちなみに、今日は早めに上がった方が良い。夕方から雨が来ますよ」
「ふん、ご忠告ありがとうよ。なら、さっさと昼で上がるかね」
「雨? こんなに晴れているのに?」
「星読みの言うことは聞くもんさ」
まだよく分かっていない少女は首をひねっているが、老婆の言葉に頷いてみせた。素直な様子にイズナはまた明るい笑みをさらに深くして、軽く会釈を残してその場を去った。
「また来てくださいね、旅のお兄さん!」
背中越しに手を振って、青年は人波の中に身を投じる。やがて背負った大きな楽器ケースも人の中に溶け込んでいった。
流石国境の街、貿易の要として栄える街だからか、大通りはもちろん路地に入ってもとんでもない人出がある。イズナはどこか落ち着ける場所を探して、街を右往左往していた。だが、こういう街には必ず大きな広場や公園があるものだと信じて青年は背後からせっつかれるような心地で視線を走らせる。
しばらく彷徨っていると予想通り、中央に噴水を備えた円形の広場に出た。住民や外から街を訪れた人々の憩いの場なのだろう、あちこちに備えられたベンチで思い思いの時間を過ごしている人の姿が見える。
イズナも背中の荷物を横に寝かせてから空いているベンチに腰を下ろし、息をつく。すると、音もなくイズナの足にふわふわとしたあたたかい塊が体を擦りつけてきた。犬よりも大きく、野性味のある顔立ち――狼だ。深い灰色の毛並みを朝日に照らされてもまだ眠たげな狼は鼻先を青年の手にぐいぐいと押し付けて何かを催促するようだ。
「分かった、分かったから……全く、出てくるなら最初から自分で歩けよな」
街はもちろん、最近では山でも見かけない狼に驚く素振りもなくイズナは宥めるように狼の鼻先をかいてやりつつ、もう片方の手でさっき屋台で包んでもらった惣菜を一つ取り出してやる。すんすん、と匂いを嗅いだと思えば狼は大きな口で半分ほどを飲み込んでいった。
「お前、意外と食いしん坊だよな。あいつもそれくらい食べてくれたら安心したのにさ」
狼が満足そうに咀嚼し始めたのを見て、呆れ顔のイズナもまた自分の分に口をつけた。パンはかなり硬いが、分厚いベーコンの肉汁や中の具から染みてくる水気で少しやわらかくなっている。玉子と肉でかなりボリューム感があるが、新鮮な野菜ならではの滋味深い緑の味でさっぱりとした後味だ。イズナはゆっくりと咀嚼しながら、ぺろりと自分の分を食べてしまった狼の毛並みを撫でる。
「さっきのおばあさん、どこまで分かっていたんだろう。お前、分かる?」
狼はイズナの問いに答えるわけでも特に気にする素振りもなく、寝そべったまま喉奥を低く鳴らして楽器ケースを尻尾で撫でていた。
「……まあ、いいか」
最後の一かけらを口に放り込んで、青年は服に落ちたパンくずを払い落とす。彼の読みでは夕方の雨はそれなりに強く降る。今のうちに宿を取りに行かなければ壁の薄い安宿、最悪野宿を引く羽目になるだろう。まだ横になっている毛深い相棒を撫でてやると、大欠伸と伸びをした狼の尻尾がイズナの足を打つ。
「ほら、行こう。お前も濡れるのは嫌いだろう」
背負い直した楽器ケースを揺らすとゴトリと音が響く。狼は仕方ないとでも言いたげに、二歩三歩イズナの前に進み出でて青年を見上げる。同じ旅路を行ってやろう、と。