春時雨に濡れて

一年の大半が寒冷な気候の王都にも花の見頃がやってきた。この時期になると王宮で働く者たちは仕事の合間を縫って庭園に出ていき、つかの間の陽射しを楽しむ。

宮廷史官のフレイも庭園の隅に備えられたベンチで締切が間近に迫った紙の束と一緒に日光浴をしていた。心地好い風に短く切りそろえた髪を撫でられながらも微睡むことのない視線は手元の紙片に注がれている。

じっくりと資料を読んでいると、ふと頬にぽつりと落ちてきた雫を感じてフレイは空を見上げる。背の高い樹についた淡い紅色の花の向こうに見える空は、いつの間にか今にもぐずりだしそうなほど濃い灰色の雲に覆い尽くされていた。この時期の空模様は変わりやすいとはいえ、やわらかい陽射しで庭園の空気が微睡んでいたのが嘘のようだ。

いよいよ地面のあちこちに雨粒が着地し始めたのを見て、フレイは膝の上に広げていた資料を濡らすまいと手早くかき集め始めた。すると、不意に視界が暗く翳り、髪に落ちてきていた雨粒が止む。
「お困りかな?」

頭上を見上げたフレイの視界いっぱいに白い外套が広がる。フレイと資料とを雨から守るその人はからりとした笑顔で外套の中を覗き込んだ。
「……丁度、傘がほしかったところです。ウィンター殿」
「それは良かった。私の外套も君の傘になれて嬉しいと言っている」

軽口を叩くウィンターへ、一瞬フレイが身を寄せる。軍の中でも士官以上にしか着用が許されない白く厚い生地は一瞬だけふれあった二人を、雨の中でも冷めない視線の熱を雨霧の中に溶かしてしまう。
「図書館まで送る」
「……ありがとうございます」

外套の中、言葉少なに微笑むウィンターにフレイもまた応える。

やがて準備が出来て立ち上がったフレイに合わせて、ウィンターは自身の頭上に外套を掲げたまま屋根のある廊下まで歩き出す。

早くもところどころ泥濘み始めている土を避けつつ、時折ウィンターが手を引いて二人で水溜まりを飛び越えて、ぽつぽつと小雨が降るように二人は言葉を交わした。
「いつお戻りに?」
「今さっき。図書館へあなたを探しに行ったら、庭にいて驚いた」
「……まさか帰着の報告もしていないのですか」
「仕方ない、あなただったから」

悪びれる様子もなく笑ってフレイの肩に頭を乗せるウィンターに呆れたように、しかし誰よりも仕方がないことだとフレイは溜め息を吐いていた。フレイは隣りを歩くウィンターをよく見てみると、確かに装備も服もほこりっぽさが残っている。いつも丁寧に手入れをしていると言っていた戦士の証である長髪も少しくたびれていた。
「今日はもう報告だけですか?」
「その予定だけれど……あなたは?」

水溜りを避けながら遠回りしてきた道行きもあと数歩で屋根に入れるというところで、ふとフレイが足を止める。誰もが建物に逃げ込んでしまった静かな庭園で外套に跳ねる雨の音が溶けていた。
「フレイ? どうし……」

狭い外套の中。肩が、呼吸すらもふれ合う距離。フレイはウィンターが振り返ったことで目の前で揺れる結わえ上げられた黒髪を手に取る。少しかさついた髪に口づけて、軍服のまだ勲章がついていないところにフレイは額を寄せた。名前に似合わず、暑い季節の緑のような匂いがフレイの鼻腔をくすぐる。
「救国の英雄殿を独り占めするために、仕事をやっつけてくる。待てる?」
「……今夜は会えない?」
「二日後……いえ、明日には必ず」

はあ、と今度はウィンターが溜め息をつく番だった。たとえ数カ月振りに前線から帰ったとしても、フレイはウィンターを仕事より優先することはない。それを分かっていて問うた自身と想定通りの回答を得たことにウィンターは口元をゆるませて、フレイの肩口に顔を埋めた。
「いつもの店、予約して待っている」
「ありがとう。君も疲れているのだから、無理はしないで」
「あなたとの時間の方が大事だ」

ウィンターがぐりぐりと首筋に額を擦りつけると、フレイは資料を持った手で背中をさする。大きな子どもと親のようであり、師弟のようであり、しかし確かに焦がれる想いが互いの瞳に宿っていた。

しかし、意を決したようにウィンターが背筋をしゃんと立てて、フレイにいつもの笑顔を向ける。武官と文官として国に仕える者としての顔だ。
「さあ、早く屋根に入って。折角書いた報告書とあなたが濡れては部下たちに怒られてしまう」
「ふ、そうですね。ウィンター殿、雨宿りさせていただいてありがとうございました」
「いいや、宮廷史官殿のお役に立てたのであれば」

わざとらしいやり取りを交わしながら二人は屋根の下に入る。ウィンターが外套についた雨粒を振り払い、肩にかけ直したのを認めてフレイが先導して図書館へ歩き出した。その歩みはゆっくりと、一歩ずつを踏みしめるように二人は王宮を行く。

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