岸辺

人の歴史を大河に例える人がいる。

水の一滴がひとりひとりの時間、流れの一筋が人生、寄り集まった水流が国になり、やがて大きな河が時代へ転じて次世代へと繋がっていく。

フレイが史書を捲る時、いつもその滸で大河を眺めるような風景を感じていた。史官として頁を言葉で埋める度に流れの中に手を差し込んで水の温度を確かめるような観測者としての感覚に身を浸している。大河の流れのたった一筋、たった一滴にもなれないような寄る辺のなさは史書の棚に新しい一冊が増える度に強くなっていった。
「フレーイ! 報告書が届いたよ」

昨夜仕上がったばかりの史書とその源となった史料と資料を棚に仕舞っていたフレイを呼ぶ声がした。背の高い棚に遮られて明かりが入りにくい書架に在っても陽光のような明るい声にフレイは思わず目を細める。
「ありがとう、今行く」

手を振って呼びかけている同僚のサーラに手を振り返す。腕の中に残っていた紙の束を手早く所定の位置に挿し入れてフレイは書架を後にした。
「フレイ、今日は覚悟した方が良いよ」

サーラの横顔の陰影が濃くなっている。回廊に取り付けられた大きな窓から射し込む西日に照らされていることだけが原因ではないだろうことはフレイにも察せられた。

王都は静かで平穏そのものだが国境沿いではここ最近、隣国との小競り合いが続いているらしい。多少の危険を日常としている王都に立ち寄る行商人たちや旅を住処とする冒険者たちも出立を遅らせるほどと言えば、その事態の重さは自ずと理解出来る。

急流の轟を感じてフレイは窓の外に視線を遣った。西日を瞳に入れたフレイの視界が白く染まる。

二人が執務室に戻るとサーラの予告通り、部屋に備えられた机や台と呼ばれるもの全てが紙の山に埋め尽くされていた。山々の合間を見習い史官のジョルジュとユースが慌ただしく行き来して、手に持った帳簿と紙の束とを照らし合わせている。

これら全てが全国各地から届けられた報告書や公文書、史料に値すると認められた言葉たちだ。フレイやサーラたち宮廷史官はこの言葉の海から事実を撚り集めて歴史を編む。
「これは……また……」
「ね、言った通りでしょ」
「フレイ、サーラ! そんなところに突っ立っていないで、手分けして片付けちゃいましょ。議会のお偉方がまた嫌味を言いに来るわよ」

これから始まる仕事を思うと足が重くなってしまったせいで戸口から動けずにいた二人に檄が飛ぶ。執務室の一番奥、一等広い机を紙と本でいっぱいにした壮齢の女性が身軽に机の上を飛び越えて出てきた。
「フレイはそっちの山を。サーラはこっちね、あなたの故郷に近い地域だから読み取りやすいと思うわ。ジョルジュとユース、双子ちゃんたちは資材管理を任せるわ。インクと紙は常に一定量に保つこと」

カツカツと鋭い足音に似合う的確な指示を宮廷史官長クランが発すると、確かに執務室の温度が上がった。
「量がいつもより多くても期限も人員も変わらない。みんな、踏ん張りどころね」

指示が飛ぶ前に倉庫に駆け込んでいった双子を見て、サーラと顔を見合わせて頷き合ったフレイもまた仕事に取りかかるべく自分の机に向かった。

ひとまず手を動かさなければ始まらない、フレイはうず高く積まれた紙の束に手を伸ばす。それは底の見えない水面に手を浸す感覚に似ている。指先にふれるしっとりとした紙の質感が思考を史官としての責務に引き寄せた。

報告書の内容はフレイの予想通り、国境沿いの紛争に関する内容だ。

本来、国境を越えるには関所で手形を見せて通過する必要があるが、強行突破して王国側へとなだれ込もうとする勢力が出ている。報告書の大半は国境警備隊の交戦記録だが、敵方を尋問した記録、装備や言葉から彼らが何処から来て何を目的としているのかを考察する手記なども合間に入り混じっていた。

彼の地の天候は雨が少なく、年中空気が乾きがち。土埃に喉や目を傷めないように顔を隠す装備は欠かせない。土煙が舞い上がる中を突っ切って駆ける敵兵が目指すのは国境警備隊の補給地だ。

王都から離れた土地であるほど、物資は厳として管理される。作戦なんてものはない無謀な突撃を繰り返す敵兵たちは難なく捕まってしまう。その敵兵たちのほとんどがまだ少年と言えるような年若い者ばかり。まだ守られるべき子どもが無茶をせざるを得ない現実は警備兵たちの心を蝕んでいく。

何が彼らを危険に追いやるのか、ただ捕縛するだけで良いのか。戦闘記録でしかないはずの言葉には敵方への情が滲んでいた。

報告書だけでは知り得ない背景に香る空気が立ち上ってくる瞬間、フレイは足元を濡らす水しぶきの気配を感じる。そして一層深いところの水を攫おうと手を言葉の奔流に差し入れた。フレイが新しい紙片にふれて読み進める度、言葉を包む人の視線は雪がれ溶け落ち、事実だけが底に残る。

書き留められた事実がやがて一冊分の史書を形作ろうという頃、フレイの机に影が落ちた。
「フレイ」

フレイが声に応えるように見上げると、クランがランプを片手に携えている。彼女の背後には双子の片割れ、ユースが資料を両手いっぱいに抱えて控えていた。ペタペタと靴を鳴らしているユースの様子を見る限り、フレイが顔を上げるまでの短くない時間を机の前で待たせていたらしい。
「ごめん、クラン、ユース。聞こえていなかったみたいだ」
「こちらこそ、集中していたのに悪いことをしたね」

フレイの頬についたインクを指で拭う彼女の瞳はランプの光のせいか、気遣わしげに揺れていた。史官長の証であるネクタイピンがフレイの向かいに座ったクランの滑らかな所作に合わせてシャツの上で踊る。
「この報告書はあなたの方が詳しいと思って……お願いできる?」

どさり、崩れ始めていたフレイ分の資料の上に新しい紙が積み上がった。相当重かったのだろう、やっと資料を手放せたユースは腕をぐるぐる回して痺れを取ろうと躍起になっている。そんな少年の背中をクランが撫でてやると途端に機嫌を良くしたのか、ユースは片割れの待つ倉庫へ足取り軽く戻って行った。
「勿論、引き受けます……でも、君より私の方が詳しいことなんてあるかな」
「何言っているの、たくさんあるじゃない」

執務室から繋がる倉庫から聞こえる見習いたちの微笑ましい喧騒を眺めながら、フレイはクランに問いかける。しかし本心から出た素朴な疑問は水切り石が不意に水底へと姿を消すように、クランに一笑されてしまった。
「じゃ、お願いね」

そう言って、ひらひらと手を振り自分の席に戻っていくクランは渡した分と同じくらいの量の資料をフレイの机の上から軽々と引き取っていく。普段から資料に埋もれているのに、まだ部下の仕事を巻き取る余裕を見せるその背中にフレイは思わず溜め息をこぼした。

窓の外に目を遣ると、薄雲が月にかかっている。夕暮れから着手して数時間の進捗を思い、積まれた分を早く終わらせればきっと追いつけるとフレイは算段をつけ、紙の山の天辺に手を伸ばす。

新しい報告書もまた国境沿いの村で生じた盗賊の捕縛作戦に関する戦闘記録だった。ただ、報告書の筆跡を見たフレイはふと読み進める視線を止める。クランがこの山を引き渡してきた理由を察し、メモを取る筆を机に一旦置いた。

一呼吸だけ置いて筆を執り直したフレイは改めて報告書を読み始める。国境沿いの農村に盗賊が出現、収穫した麦が狙われた。賊は漏れなくウィンター小隊によって捕縛の上、王都へ転送済みであるらしいので王都に置かれている警備隊本部の収容資料との照合が必要になることをフレイはメモに取る。

戦闘では一時的に村人が巻き込まれたが、試運用中の魔道呪符の活用によって怪我人を出すことなく事態を収束することが出来た。報告書には丁寧に呪符の開発者たちの名前が羅列されていて、その中に自身の名前を見つけたフレイは思わず口元からくすりと笑みが漏らしてしまう。

どうやらこの報告書を書いた人物はかなり凝り性らしい。フレイは指の腹で筆のつるりとした軸を撫ぜた。

本来、戦闘記録は作戦行動の一部始終と装備や物資の補給情報などがあれば問題ない。しかし、この報告書には先のような呪符の開発者の情報に留まらず、村の麦の収穫量や年中行事、郷土料理などまで補足資料として付いていた。風土記の編纂には大いに役に立つが戦闘記録としては雑音が多く、あまり質の良いものとは呼べない。

しかし、読み進めるうちにフレイは妙な感覚に陥っていた。いつもなら足元を濡らすだけの水しぶきが勢いを増し、最早自分の足首まで浸かっているような感覚。こんなことは長く史官として勤めていて初めてのことだった。

流れるようにメモを取っていたはずの筆先が鈍っていることを自覚したフレイは、一度休憩を入れようと筆を置く。すると、それを待っていたようにジョルジュが倉庫から駆け寄ってきた。
「フレイさん」
「ジョルジュ、何かあった?」
「前線からの手紙。残りの資料に紛れていたのをユースが見つけたんです」
「私宛に?」
「はい。字が汚くて読みづらかったけど」

ジョルジュが手渡した手紙をフレイが検めると確かに宛名にはやや崩れた文字で名前が書かれていた。字が汚いと言うよりは書き慣れていない印象を受ける筆跡をフレイはよく知っている。
「ありがとう、確かに私宛だ」
「ジョルジュー! ごめん、取ってきてほしい資料があるんだけどー」
「今行きます!」

フレイの答えで手紙が宛先に届いたことで安心したように一つ頷いたジョルジュは、サーラの呼びかけに応えて自身の仕事へ戻って行った。

見習い史官の職務は備品の管理や資料探しだけでなく、正規の史官が仕事に没頭出来るように環境を整えるなど多岐に渡る。まだ手つかずの資料を整頓してくれる中で手紙を見つけたのだろうことは、同じ道を通ってきたフレイには想像出来た。

丁度良い休憩になるだろうとフレイは早速手紙の封をペーパーナイフで開く。すると、便箋の代わりに黄色い何かが飛び出してきた。思わず取り落としそうになった手紙を持ち直し、飛び出してきたものをよく見る。それは小さな麦穂だった。まだ収穫して間もないものを手紙に封じたのだろう、瑞々しさの名残を感じる黄金はついさっきまで読み進めていた報告書に記されていた麦畑の風景に色を与える。

麦穂は一度机に置いて、便箋を取り出すと数枚の紙片と共にひらりと白い花弁が舞った。白い花も麦穂と一緒に押し花にされて手紙に添えられたのだろうかと、フレイは初めて贈られた花の経緯を求めて手紙を読み始める。

手紙はやはり先ほどまで読んでいた戦闘記録の舞台、国境沿いの農村から届けられたものだ。この手紙を書いている時点で戦闘が終わった後の夜だと冒頭に書き添えられている。

手紙にはウィンターが戦闘中、呪符のお陰で魔術を使える不思議な感覚を知れたことの感動、そして命を救われたことへの感謝の想いがつぶさに記されていた。随分と上達した言葉にめいっぱい詰め込まれた感情にふれ、フレイは魔術を習得し始めた頃の本の匂いを不意に思い出す。

手紙に添えられた花は助けた村の少女からの礼の気持ちらしい。押し花になってなお瑞々しい色彩を湛えている花と麦穂を改めて眺めたフレイは、ウィンターがいる遠い国境沿いの大地を想った。

金色の海のように広大な麦畑の中を駆けるウィンターの姿はきっと大河を往く舟のように頼もしいのだろう。そしてフレイ自身は岸辺からその姿を眺めている風景を想像した。

だが、想像の中であってもウィンターはフレイの手を取って、その流れの中に引き込んでみせた。足元を浸していた水は今やフレイとウィンターを飲み込んで、一つの流れとなる。史官としての自身がなお岸辺にいる気配を感じながら、フレイ自身は大河を泳ぐ一筋の流れになっていた。
「フレイ、そろそろ休憩しない? 私、お腹空いちゃって……」

眠そうに目を擦りながら自分の机から抜け出してきたサーラはフレイを見て、一瞬足を止める。押し花を月明かりに翳して眺めるフレイの横顔は透き通った雪の季節の空気に似ていた。
「ね、良いことあったでしょ」
「ああ、とびきりのね」

我が事のように嬉しそうなサーラにはにかんだフレイは押し花を机の引き出しにそうっと収め、手紙を手に席を立つ。
「サーラ、食堂に行く前に寄りたいところがある」

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